7.深夜の懺悔
*
ウィリアムは、言葉をそこで切った。
胸の内に去来するある記憶に、思わず唇を固く結ぶ。腕の中に抱くアメリアの体温が、闇の中で唯一の確かなものだった。
ふと、彼女が身じろぎをする気配が伝わる。こちらの沈黙を不安に思ったのだろうか。暗闇越しに、彼女が自分を見上げているのがわかった。
「どうかしたの?」
アメリアの静かな声が、耳元で響く。
「……いや」
ウィリアムは短く答えながらも、瞼の裏に遠い日の情景を蘇らせていた。
十年前のあの日――寮の自室に戻ったアーサーが、うめくように漏らした言葉。それを、ウィリアムは今、鮮烈に思い出していた。
氷嚢を取りに部屋を出たウィリアムが、再び扉を開けようとしたその瞬間、隙間から漏れ聞こえた苦渋に満ちた声を。
『どうして、よりによって……』
その時は、他愛もない独り言だと聞き流していた。だが、全ての状況がつながった今なら、その真意が痛いほどに理解できる。
アーサーはあの時、心の中でこう叫んでいたのだ。
――どうしてよりによって、ルイスの主人であるこの俺に、あの『赤い目』を見られてしまったのか、と。
(ああ、そうか……。あの時すでに、アーサーは気付いていたのか)
アーサーはルイスの正体を、その異質な力を知っていたのだ。
その事実を知っていながら、アーサーはあの日以来一度たりとも、ウィリアムを拒絶することはなかった。ルイスという危険な存在に近づくまいとするならば、いくらでもウィリアムから距離をとれたはずだ。それなのに、何かと理由をつけて行動を共にしようとするウィリアムを、彼はいつも困ったような顔で、それでも受け入れ続けてくれた。
なぜそこまでしてくれたのか、その理由はまだ完全にはわからない。だが、それがアーサーにとって、本意ではなかったことだけは確かだった。
「――ウィリアム?」
再び名を呼ばれ、ウィリアムはハッと我に返った。
闇に慣れた目が、心配そうにこちらを覗き込むアメリアの碧い瞳を捉える。その揺れる瞳に見つめられ、ウィリアムは、胸の内で組み上がった確信を口にした。
「アーサーはあの時、既にルイスの存在を知っていた。……それは恐らく、ルイスも同じだったはずだ。だが、この十年の間、あいつはずっと俺に隠していた……と。そういうことか……?」
ウィリアムの声に、抑えきれない苛立ちが混じる。それはルイスやアーサーへの怒りというよりは、何も知らずにいた自分自身への情けなさだった。
「……どうしてだ。何か言えない理由があったのか……? なぜアーサーはルイスを知っていながら、俺と共にいた……?」
困惑が、ウィリアムの声を震わせる。
するとアメリアは何を思ったか、首に腕を回してきた。彼女の柔らかい手が、強張ったウィリアムの背を優しく撫でる。
「今の話が本当なら……ウィリアム。私、アーサー様の気持ちがわかる気がするわ」
その言葉に、ウィリアムは眉をひそめた。
そういえば、アメリアもまた、ルイスやアーサーと――そして自分と同じく、人ならざる宿命を背負った側の人間なのだと思い至る。
「……どういう、ことだ」
「私ね、あの日。ルイスに聞いたの。ライオネルの屋敷で、彼に尋ねたのよ。〝ルイスには気を付けろ〟と、アーサー様から忠告を受けたこと。どうして、アーサー様があんなことを言ったのかわかるかって」
ウィリアムは黙って、アメリアの言葉の続きを待った。彼女の吐息が、温かく胸にかかる。
「アーサー様のその赤い瞳は、何もかもを覗いてしまえる瞳なのだって、ルイスは言っていたわ。見つめた者の心を、その奥底まで読み取ってしまう瞳。でも、そんなアーサー様にも、ルイスの心だけは読めなかった。それであの方は、ルイスを恐れて遠ざけたのよ、きっと。……だけど」
アメリアは一度言葉を切り、呼吸を整えた。ウィリアムの胸を打つ鼓動が、少し早くなる。
「……だけど?」
ウィリアムが促すと、彼女は切なげに言葉を紡いだ。
「あなたの心に嘘が無いことに、アーサー様は心を動かされたんだわ。だって、人の心を読んでしまえるなんて、どれだけ辛い思いをされて来たか……。だから……あなたに心を許してしまったのよ。どうしようもなく」
その言葉が、雷のようにウィリアムの心を貫いた。
脳裏に蘇るのは、あの時のアーサーの酷く傷ついた顔。〝二度と姿を見せるな〟と、そう告げたときの、絶望に歪んだあの表情――。
「俺は……何てことを――」
そうだったのだ。
あの時、アーサーが俺から顔を逸らしたのは、やましいことがあったからではない。俺の心を読まないようにするため――友人を傷つけないための配慮だったのだ。
ようやくその事実に気が付いて、ウィリアムは奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めた。
胸の奥で渦巻くのは、怒りか、焦りか、それとも後悔か。久しく心を預けていた彼には、その判別すらつかなかった。
だが、ただ一つだけわかることがある。
ルイスがウィリアムとアメリアを結びつける為にアーサーを陥れたこと。アーサーはそれに気が付いていながら、黙って身を引いたこと。
だが自分は何一つ知らないまま、自分自身の名誉を守るためだけに、親友を深く傷つけたのだ。
(――ああ、自分はなんと浅はかなことをしたのだろう)
歳を重ねるごとに膨らんでいく心をルイスに預け、彼に判断を委ねているうちに、いつの間にか感情を忘れ、考えることすら置き去りにしてしまっていた。いや、違う。感じることを忘れてしまっていたのだ。人として大切な何かを、自ら捨て去ってしまっていた。
「……俺、は……」
ルイスの言葉を鵜呑みにし、信じ切ってしまっていた自分自身への怒りが、心をどす黒く塗りつぶしていく。
(ルイスを憎いとは思わない)
罵るつもりも、否定するつもりもない。ルイスは確かにウィリアムを裏切った。だがそれでも、彼の行いはウィリアムの幸福を願ってのことだったのだから。ウィリアムとアメリアの心をつなげるために、彼なりに選んだ手段だったのだろうから。
しかし、自分のアーサーへの行いはどうだ。何の落ち度もない彼へ突きつけたあの冷酷な言葉は……決して許されるものではない。
ウィリアムは悔恨に唇を震わせた。
その硬く閉ざされた薄い唇に、不意にアメリアの柔らかな唇が落とされた。驚いて目を見開くウィリアムの耳元で、彼女が囁く。
「大丈夫、大丈夫よ。話し合えば――わかってもらえるわ。素直に、ありのままの気持ちを伝えればいいのよ」
「……アメリア」
「あなたは私を受け入れてくれたわ。だから、アーサー様もきっと」
アメリアの言葉は、ウィリアムの胸の奥を締め付けた。
闇に浮かぶ彼女の輪郭はとても美しいのに、どこか寂しげに見えて――心の隅に、小さな棘が引っかかったような気がした。
けれど、今は彼女の優しさに甘えるしかなかった。彼はどうにか言葉を絞り出す。
「……そう、だな。君の言うとおりだ。誠心誠意、謝罪するよ。たとえ許されなくても……それが俺の礼儀だ」
「……ええ」
「明日にでも、行ってくる」
ウィリアムはアメリアを抱きしめる腕に力を込めた。この温もりを確かめるように。そして、ずっと聞きたかったことを口にする。
「……だから……と言ってはおかしいが……。なぁ、アメリア」
「?」
「明日、俺が帰ったら……君の話も聞かせてくれないか? 君の……ことを」
ウィリアムの言葉に、アメリアの碧い瞳に映る彼の影が、一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、微かに揺れたように見えた。
けれどすぐに、彼女は静かに目尻を下げる。
「ええ。わかったわ」
唇の端をそっと持ち上げ、彼女は微笑んだ。
その笑みは花の様に可憐で、けれど今にも散ってしまいそうな儚さを帯びていた。




