3.追憶――ルイスとの出会い(後編)
「――……ッ」
ウィリアムが背中から地面へ倒れるのと同時に、先ほど彼が立っていた場所に勢いよく馬車が突っ込む。
屋敷の塀と馬車が接触し、爆音のような音が響き渡った。衝撃で石畳が揺れ、飛び散った破片が雨の中を舞う。――だが幸いなことに、ウィリアムは直撃を免れ、巻き込まれずに済んだのだった。
「ウィリアム様、お怪我は……⁉」
アルバートはウィリアムへ駆け寄った。その顔色は、突き飛ばされたウィリアム以上に蒼白である。
アルバートは石畳に倒れ伏すウィリアムの身体を上から下までくまなく触診し、ようやくほっと胸を撫でおろした。幸い、目立った外傷はないようだ。
「…………アル……僕……今……」
誰かに、突き飛ばされた……?
しかし、その言葉が口にされることはなかった。恐怖のあまり、喉から声が出なかったからだ。
アルバートの手を借りて上半身を起こしたウィリアムを、更なる恐怖が襲う。彼が直前まで立っていた位置の背後、屋敷の堅牢な塀に馬車が突っ込んでいた。車体は前半分が潰れ、見るも無惨な状態だった。
――もし、誰かに突き飛ばされていなければ、自分は今ごろ……。
「……ッ」
ウィリアムは想像した己の末路の恐ろしさに、思わず目をつぶる。とても、直視していられずに。
――だが、そんなときだった。「怪我はありませんか?」と、背後から声がしたのだ。
「?」
雨音を縫って届いた涼やかな響きに顔を向けると、そこには子供が立っていた。
黒いコートを頭からすっぽりと被った子供――身長から見て、おそらくウィリアムと同じ年頃だろうか。
アルバートの視線もその子供に向けられたが、すぐに周囲から発せられる悲鳴と呻き声に気を取られ、立ち上がった。
「ウィリアム様……ここから離れ、少しの間待っていてください。私は怪我人の救護をしなければ」
そう語るアルバートの瞳には、もはやウィリアムの姿は映されていなかった。
医者の息子である彼にとって、救える命を前に放置するという選択肢はなかったのだろう。
アルバートはウィリアムに背を向けた――だが、一度だけ、振り返った。
「そこの方、我が主人をお助けいただき、心から感謝いたします。お礼は後ほど、必ず」
アルバートはコート姿の子供に短く告げると、今度こそウィリアムに背を向け去った。黒い傘を地面に放り出したまま。
騒然とする通りの片隅に、ウィリアムと一人の子供が取り残された。
二人はしばらくの間、降りしきる雨に打たれながら互いの様子を伺った。最初に動いたのは、コート姿の子供だった。
子供は地面に落ちていた傘を拾い上げ、未だ尻を地面につけたままのウィリアムの頭上にそっと差し出す。
そして、唐突に口を開いた。
「君、妙な気配がしますね」
「……え?」
落ち着いた声色から、ウィリアムは目の前の子供が自分と同じ男であると悟った。
冷たい水たまりに下半身を浸したまま、ウィリアムは少年を見上げる。
するとフードの下の唇が、何かを確信したように微笑んだ。
「君……〝死〟の匂いがしますね」
「――ッ」
刹那、ウィリアムは目を大きく見開く。少年の言葉の意味が、すぐには理解できなかったからだ。
驚きに固まるウィリアムの視線の先で、少年はフードに手をかけ、ゆっくりと下ろす。
そこから現れたのは、漆黒の髪と瞳を持つ、美しい顔。目も、鼻も、口も、眉の形でさえ――全てのパーツが整った、男とも女とも取れない中性的な美貌。
ウィリアムは、その浮世離れした少年の面に釘付けになり、口を半開きにしたまま固まった。しかし当の少年は、ウィリアムの視線など気にも留めず、どこか冷たい瞳でウィリアムを見下ろす。
「なるほど。自分ではまだ気付いていない、と。……いや、その様子だと、気付きかけてはいるのでしょうか」
「…………」
なんだ、こいつ――と、ウィリアムは思った。
こいつは何を言っているんだ、と。〝死〟の匂いとは……気付いているとかいないとか、いったいどういう意味なんだ、と。
しかしそうは思っても、どうしても口から声が出なかった。
少年の言葉にただならぬ恐怖を感じ、喉が張り付いたように、何も言葉を発することができなかった。
「なるほど。やはり警戒しますか。――そうですよね。でも大丈夫。心配はいりません。僕はあなたの味方です。あなたのその悩み、僕が解決してさしあげます」
「……え?」
突然の申し出に困惑を隠せないウィリアムに、少年は言葉を続ける。
「あなたを助けると言っているんです。僕ならあなたの力になれる。……あなたの大切な人を、生かしてあげられる」
「……それって……どう、いう……」
少年の漆黒の瞳がぎらりと揺らめく。雨に濡れたその瞳は、恐ろしくも美しく、まるで黒曜石のように妖しく輝いていた。
「いきなりこんなこと言ってもわからないと思いますけど。あなたの周りの人が不幸になるのは、あなた自身のせいなんですよ、ウィリアム」
「え……? どうして、僕の……名前――」
ウィリアムは茫然と尋ねる。
すると少年はその場に腰を落とし、座り込んだままのウィリアムと視線を合わせる。
「どうしてって、さっきの従者が君のことをそう呼んでいたでしょう?」
「従者じゃない。先生だ」
「おや、そうでしたか、それは失礼しました。……さて、どうします? どうしてあなたのせいで周りの人が不幸になるのか、聞いてみたくないですか?」
「…………」
少年の瞳がウィリアムの視線を捕らえ、決して離さない。
ウィリアムはもう、黙って頷くことしかできなかった。
「それは、あなたには既に運命づけられた定めがあるからだ。あなたに近づきすぎた者は、どうしてもその影響を強く受けざるを得ない。だから、君と親しくなればなるほど――君が愛せば愛するほど――周りの人間はその運命に耐えられず、最後は命を落とすことになる」
「――っ」
少年の右手の甲が、ウィリアムの胸に……とん、と軽く当てられた。
「僕は、そういうことがわかる人間なんですよ」
少年の顔が、ウィリアムの眼前に迫る。濡れた背筋に、嫌な汗が一筋伝い落ちた。
脳裏を過ぎる両親の会話、次々と屋敷を辞めていった使用人たち。全ての符合が、少年の言葉を裏付けていく。
「だけど、僕ならそれを引き受けられる。周りの誰も傷つけることがないように、して差し上げられます」
それは優しく、酷く甘ったるい声だった。ウィリアムの脳を侵し、大切なものを絡め取るように、少年の凛とした声が空気を震わせる。
二人の間の沈黙を埋めるのは、ただ傘を打つ雨音だけ。地面を濡らす冷たい雨水がウィリアムの服にじわりと染み込み、彼の体温を少しずつ奪い去っていく。
冷たい不快感に眉をひそめながら――ようやく、ウィリアムは声を絞り出し呟いた。
「……どう、やって?」
ウィリアムの問いに、少年は這うような……ねっとりとした視線を向けた。ウィリアムの耳元に唇を寄せて、そっと囁く。
「あなたの心を……僕に、預けてくれさえすれば」
「……え?」
「あなたの愛も、痛みも、苦しみも、僕が全て引き受けましょう。そうすればもう誰も、あなたも、苦しむことはなくなります。勿論、ただで、という訳にはいきませんが……」
そこまで言うと、少年はウィリアムの左手に傘を握らせ、すくっとその場に立ち上がる。
「ゆっくり考えてくださって構いませんよ。僕はいつでもこの先の教会に――」
「わかった」
少年は人差し指で道の先を示すが、それを遮るようにウィリアムの震える声が呟いた。
それはとても不安げな声だったが、それでも確かに、決意した重みを秘めていた。
「わかったよ。それで、お母さまが助かるなら」
縋るような、それでいて強い意志を秘めたウィリアムの瞳。彼の眼差しに、少年の黒い瞳が一瞬だけ揺らめいた。
それならば――と、少年はウィリアムの腕をぐいっと掴み、無理やりに立ち上がらせた。ウィリアムの腰が浮き上がり、二人の目線が至近距離で重なり合う。
「……あ」
ウィリアムは、いつの間にか膝の震えが収まっていることに気がついた。それどころか、先ほどまで感じていた恐怖さえも、どこかに消え失せている。
これはこの少年のお陰なのだろうか――ウィリアムは考えた。しかし、答えは出ない。
ウィリアムは自分より卵二つ分ほど高い位置にある少年の顔を、見上げるように首を傾げた。
「君は何者なの? どうして僕を助けてくれるの? ……君は僕に、何を望むんだ?」
不安げに尋ねるウィリアムに、少年は口角を上げる。
「僕が何者か、それはいずれわかるでしょう。そして、あなたをお助けする理由も……」
少年は、続ける。
「僕があなたに望むこと。それはただ一つです。僕は時間の許す限り、あなたを守りあなたの為にこの力を捧げましょう。ですからいつか、それが必要無くなったそのときには、どうか僕の願いを一つだけ聞いて頂きたいのです」
「願い事? それは、今聞いちゃいけないことなの?」
「ええ、まだ。そのときが来たら、お話しますよ」
「…………」
雨に濡れた少年の黒い瞳が再び揺らめいた。
ウィリアムの喉が、ごくりと音を鳴らす。
「……わかったよ。だけど、これだけは約束してくれる?」
「伺いましょう」
「隠し事をするなとは言わないよ。絶対に嘘をつくな、とも……。だけど――」
ウィリアムは一瞬瞼を伏せたが、すぐに、その瞳を見開いた。
「僕の大切な人たちを絶対に傷つけるな。これだけは、譲れない」
射るように鋭いウィリアムの視線――その迷いのない瞳に、少年はフッと笑みを零す。
「わかりました、いいでしょう。いつの日か……あなたの運命の糸が繋がるそのときまで、僕は誓いを守ると約束します」
少年の左手が、ゆっくりとウィリアムの前に掲げられた。
それを取る、ウィリアムのまだ幼い小さな掌。
「これは契約です。さあ、僕の名前を呼んでください。ウィリアム様」
雨音が、遠ざかっていく。
「名前……?」
空気が、まるでここだけが世界から切り離されてしまったかのように静止する。
「そうです。今この瞬間より、僕はあなたのものになる。ですから、そうであるという証を、この僕に」
「…………」
少年の落ち着いた声音に、ウィリアムは祈るように瞼を閉じた。
名前――それはどうしてか不思議と、自然と口から零れ落ちる。まるで最初から決まっていたかのように、これが運命であるかのように、ウィリアムは宣言した。
「……ルイス。君の名前は――ルイスだ!」




