4.不穏な気配
やがてホールの照明が落ち、静寂の中に前奏曲が流れ始める。
いよいよ開幕だ。私たちは微笑みあって、舞台へと視線を移す。
美しくも悲しげな旋律が、私たちに「切ない恋の物語」の始まりを告げた。
曲名は「第一幕への前奏曲『ヴィオレッタに捧げし歌』」。ヴァイオリンから始まった繊細な音色に、フルートやクラリネット、そしてホルンやティンパニーの音が重なり合い、会場全体に響き渡る。
――とても美しい曲。
ヴィオレッタの運命を暗示するような、哀愁を帯びた音色。
きっと以前の私なら、この音楽を心から美しいと感じることはできなかっただろう。あまりに悲しすぎて、目を背けてしまったかもしれない。でも、今は――。
今の私にはウィリアムがいる。カーラ様やエドワード、ブライアン……ハンナやライオネル。そしてルイスも。
多くのものを失い、傷ついてきたけれど、それでも彼らのおかげで私は「心」を取り戻すことができた。
だから今の私には、この美しくも悲しい旋律が、渇いていた心に澄み渡る水のように感じられる。それがとても、嬉しいのだ。
前奏曲が終わると華やかなワルツへと変わり、赤い幕がゆっくりと上がっていく。
最初の場面は、夜会に集う貴族たち。
そこで、青年貴族アルフレードと、美しい娼婦ヴィオレッタが出会う。
実は随分前からヴィオレッタに恋をしていたアルフレードが、皆の目を盗みヴィオレッタに愛の告白をするシーンだ。
【あなたのことを愛しているのです、一年前のあの日からずっと! あの日あなたは私の前に稲光のごとく現れた。以来私はあなたを想い、震えながら、未知の愛に生きてきた! ああ、もしもあなたが私のものならば、あなたの優美な日々を私がお守り差し上げるのに!】
真っすぐな愛を語るアルフレードの瞳。
その言葉に、熱い眼差しに、私の中でエリオットの姿が重なる。
それは古の記憶。懐かしく、そして痛みを伴う愛しい思い出。
――ああ、そうだ。私は確か前世で一度だけこのオペラを聴いたのだ。
けれどその時の私は、最後まで見ていることができなかった。二人の不幸な結末を自分たちに重ね合わせてしまって、辛くてどうしようもなくなってしまったのだ。「真実の愛」だなんて、ただの綺麗事だと思っていた。
その気持ちは今でも変わらないかもしれない。けれど今は、あの時より穏やかな気持ちで聴いていられる。
それは私の隣に、ウィリアムがいてくれるからだろうか。それとも、もう一度彼を愛してもいいのだと、ルイスに許してもらったからなのだろうか。
理由は自分でもよくわからない。ただ一つ言えるのは、自分でも気づかないうちに、私の心が満たされていたということ。
――貴族と娼婦の身分違いの恋。
ヴィオレッタは最初、当然のごとくアルフレードの告白を本気にしなかった。貴族の戯れだと思ったからだ。
けれどそれでも挫けないアルフレードの言葉に、とうとうヴィオレッタの心が動く。
彼女は胸元の花を一輪抜き取り、アルフレードに手渡した。椿の花を。
【この花は……?】
【返していただくために渡すのよ】
【……! それはいつですか?】
【花が枯れてしまう前に】
【ああ! それでは明日に……!】
【ええ、明日に】
――その時のアルフレードの微笑みは、まるで初夏の太陽の様に輝いていて。かつて私に向けられた、あの笑顔と同じだった。
【私は幸せ者です。これ以上は望みません】
ヴィオレッタの手の甲に優しく唇を落とし、顔を上げたときのアルフレードの、なんと嬉しそうな顔。
そんな彼の純粋な心が、熱い眼差しが、ヴィオレッタの冷えきっていた心を溶かしていく。別のパトロンを持ち、既に自身の身体が重い病に侵されていることを知っている彼女が、「愛」に心を打たれた瞬間だった。
だが、だからこそ彼女は深く思い悩む。
先の短い自分が、アルフレードと共に生きていいものか、と。
切なる想いを乗せた彼女のアリア『ああ、そはかの人か』が、私の心を震わせる。
【ああ、不思議だわ。心に彼の言葉が刻まれている。真実の愛なんて、私には不幸なだけなのに。この苦しい心を、私はいったいどうすればいいの。今までこんなに心が熱くなったことはなかった。そんな相手はいなかった。ああ、これが愛というものなのね】
――ヴィオレッタの初めての恋心に、私の心が突き動かされる。
千年前の、エリオットを愛した記憶が鮮明に蘇る。彼に対する愛だけに生きたあの人生を、昨日のことのように思い出す。
そしてその記憶が、私に強く決意させる。――もう二度と、立ち止まってはいけないのだと。待っているだけでは何も解決しないのだと。
【でも私はあの方と生きることはできないわ。私はあまりに愚かで不毛な生き方を選んでしまった。そんな私の残り短い人生に、あの人をつき合わせることなんてできない。――ああ、だけどそれでも、私はもう彼を愛してしまった。もう後戻りなんてできないわ】
――哀れなヴィオレッタ。
私もきっと彼女と同じだった。この千年の間ずっと、思い悩み苦しんだ。愛ゆえに遠ざけ、愛ゆえに傷つけた。
でも、今は違う。私の隣にはウィリアムがいてくれる。私は必ず彼の命を守り通し、そして私と同じように苦しみ続けるルイスの心を救いたい。
私は、愛し合うアルフレードとヴィオレッタの歌声を聴きながら、暗闇の中で一人静かに、そう決意した。
*
――二時間半に渡る演奏が終わり、拍手喝采の中、幕が下りた。
私たちは余韻に浸りながら、大階段を下っていた。
そんな私の隣には、未だ堪えきれず涙を流し、鼻をすするカーラ様の姿がある。
「……ふっ……うぅ……」
彼女はどうやら感極まってしまったらしく、幕が下りてしばらく経った今もこの調子なのだ。
「カーラ様……大丈夫ですか?」
私の問いに、彼女はハンカチで目許を押さえながら小さくこくりと頷く。
「ごめ……なさっ……」
「謝る必要なんてありませんわ。本当に素晴らしいお芝居でしたもの」
私だって、気を抜けば涙が零れそうだった。エリオットとの思い出を抜きにしても――それ程に、心揺さぶられる舞台だったのだ。
「席でもう少し落ち着くのを待てば良かったな」
ウィリアムは苦笑し、「本当にカーラは昔から変わらないな」と呟いた。
するとそれに反応したのは、エドワードとブライアンだ。二人は片方の口角を上げると、やれやれと口を開いた。
「いい加減泣きやめよ、ただの芝居だろ」
「そうだぞ。まぁでも、ヴィオレッタ役のアイリーンは涙が出るほど美しかったな」
「確かに。あの曲線美、思わず溜め息が漏れたよ」
「あのドレスの下を一度でいいから拝んでみたい」
そう言って顔を見合わせ、ニヤリと笑うこの二人。
そんな紳士らしからぬ低俗な会話に、カーラ様はぎょっとして顔を蒼くした。ウィリアムに関しては呆れて物も言えないと言った様子だ。
――あぁもう、本当にこの二人は……。
「あなた達は本当に期待を裏切らないわね。そもそも始まって十分で寝るなんて、どういう神経してるのよ」
「ははっ、気付いたか」
「いやぁ、俺たち昨日徹夜だったから、つい……」
そう言って緩い笑顔を浮かべる二人は、本当に掴みどころがない。まぁ、この二人がこんな風になったのは私にも責任があるのだけれど……。
「夜遊びもたいがいにした方がいいと思うわよ」
私がそう告げると、二人は再び顔を見合わせ、ぶはっと吹き出した。
「まさか、他でもない君にそんなことを言われる日が来るとはな!」
「あぁ、変わったのはウィリアムの方かと思っていたけど、アメリア、君も中々丸くなった。この二ヵ月の間によっぽどのことがあったんだな」
階段下のクロークで順にコートを受け取りながら、興味深そうにこちらを見つめるエドワードとブライアン。
けれどそれも束の間、彼らは何か思い出したように、急に真面目な顔をした。
「変わったと言えば――。なぁ、ウィリアム」
「……何だ」
急に声色を変えたエドワードに、ウィリアムは不思議そうに眉をひそめる。
「最近、アーサーと会ってるか?」
「……っ」
その名前を聞いてウィリアムが動揺したことに気付いたのは、私だけではないだろう。
エドワードとブライアンは、意味深な視線を送りあう。
「あいつ、最近おかしいんだよ。俺たちがいくら誘っても出てこないし」
「ああ。湖に出掛けた日以来、手紙は全無視。会おうと思って王宮に出向いても、いっつも留守なんだ」
「最近ようやく侍女から話を聞きだしたら、王立図書館に通ってるって言ってさ。何か調べものをしているらしいって」
「それで俺たち先週行ってきたんだよ、図書館に。そしたら……」
二人は再び探り合うような視線で合図しあい、気まずそうに息を吐く。
「なぁ……お前たち、いったい何があったんだよ? アーサーのやつ、お前の名前出した途端、もの凄い顔してさ。おっかないのなんのって」
「まるで昔のあいつに戻ったみたいだったぞ。まだ低級のころの、知り合ったばかりのあいつみたいに」
「何があったのか知らないけど、一回会いに行ってやってくれよ」
「俺たちじゃどうしようもないんだ。ああなったらもう、お前の話しか聞かないよ」
そう言った二人の表情は、言葉は、いつになく真剣で……ウィリアムは何も応えずに押し黙った。
「――な? ウィリアム。頼むよ」
「ああ、お願いだ」
「…………」
二人の懇願するような瞳に、ウィリアムの表情が陰る。親友たちのお願いを断ることもできず、彼はどうにか、首を縦に振った。
「わかった。アーサーには会いに行く」
その言葉に、ぱっと顔を明るくする二人。
「あぁ、良かった!」
「頼んだぞ、ウィリアム!」
「俺たち明後日には保養地へ立つからな。次は向こうで会おうぜ」
「アーサーのことよろしくな!」
二人は口々にそう言うと、訳が分からない様子のカーラ様を問答無用で引き連れて、嵐の様に去って行く。その背中を見送るウィリアムの横顔に映る感情は、果たして……。
私はそんな彼の苦悩に気付かない振りをして、「帰りましょう?」と、ウィリアムを見上げ微笑んだ。




