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3.素直な気持ち


 ボックス席の扉を開けると、そこには別世界が広がっていた。

 二千人以上を収容するという大ホール。頭上には巨大なシャンデリアが幾つも輝き、赤と金で統一された重厚な空間を照らし出している。

 眼下の一階席は、既に紳士淑女たちで溢れかえっていた。ざわめきと熱気が、心地よい圧となって肌を撫でる。


「いい席だな」

 ウィリアムが手すりに手をかけ、眼下を見下ろして満足げに笑みを浮かべる。

 それに応えるように、私も微笑んだ。

「本当ね、舞台が正面に見えるわ。さすがは侯爵家ね」

 私たちの席は、一階席を取り囲むように半円状に作られた四階層あるボックス席のうち、最も見晴らしの良い二階正面だ。

 室内には豪奢な椅子が七つ。最前列が三席、その後ろに二席ずつ並んでいる。


「俺たちはここでいいからな」

「ああ、どうせカーラの付き添いみたいなもんだし」

 エドワードとブライアンはそう言って、早々に二列目の席に腰を落ち着けた。

 カーラ様はそんな二人に冷ややかな視線を送ってから、私に向き直り、花が咲くように微笑んだ。

「アメリア様、どうぞお座りになって」

 勧められるまま、私は最前列の中央に座る。

 その左隣にウィリアムが、右隣にカーラ様が腰を下ろした。


 開演を待つ喧噪の中、カーラ様がパンフレットを手に問いかけてくる。

「アメリア様は『椿姫(ラ・トラヴィアータ)』の原作、お読みになられました?」

「ええ、読みましたわ。カーラ様もお読みに?」

「はい。私は先月読み終えたばかりで……」


 今夜の演目『椿姫』。数あるオペラの中でも、最も有名で愛されている悲劇の一つだ。

 青年貴族アルフレードと、裏社交界に生きる高級娼婦ヴィオレッタの純愛を描いた物語。

 夜会で出会い、恋に落ちた二人は、パリの喧噪を離れて郊外でひっそりと幸せに暮らす。けれど、アルフレードの父親が現れ、世間体を理由に別れを迫るのだ。

 ヴィオレッタは愛する男の将来のために、自ら悪女を演じて彼の元を去る。

 再会した時には、彼女は結核に冒され、死の淵にあった――という、あまりにも救いのない悲恋。


 娼婦を主役に据えたことで、初演当時は貴族社会からの反発も大きかったと聞く。しかし、ヒロインの献身的な愛と悲劇的な最期は、時代を超えて人々の心を打ち続けてきた。

 この作品は、私の前世にも存在していた。

 千年という時の中で、芸術もまた形を変えながら受け継がれてきたのだろうか。

 原作を読んだのは、確かルイスと出会う前のことだ。あの頃の私は、ヴィオレッタの生き方に何を感じただろう。


「私が読んだのはもうずいぶん前のことなのですが……読み終えたとき、涙が止まらなくなったのを覚えていますわ」

 そう言って私が微笑むと、カーラ様はわずかに目を伏せた。

「そうですわよね。私も、読み終えたときとても切なくなりました。でもそれだけじゃなくて……私、自分をとても恥ずかしく思ったんです」

「恥ずかしい?」

「実は私、娼婦と貴族の恋のお話なんていかがわしいって、ずっと思っていたんですの。だから、読もうとも思ったことがなくて……。でも、なんだかアメリア様や兄さまたちを見ていたら、知らないままに否定するのは違うのではないかしらって思えてきて……。それで実際読んでみたら、案の定、とても素晴らしいお話で……」

「…………」

「だから……その……私――本当にアメリア様に感謝しておりますの。以前の私だったら、絶対に知ろうとしなかったことを、アメリア様のおかげで知ろうと思えるようになって……。いかに自分の世界が狭いのかということを、自覚したと申しましょうか……」

 恥じらうように言葉を紡ぐ彼女。

「私、アメリア様とお友達になれて、本当に嬉しいんですの。あの日湖で……私、アメリア様にとても失礼なことを言ってしまったのに、それでもずっと私に優しくしてくださって。でも本当は、声が出ないから私を責められないだけじゃないのかしらって思っていたのに……。でも、アメリア様は今日も、変わらず私に笑いかけてくださって。……だから、私――」


 彼女は私をまっすぐに見つめ、泣き出しそうに笑う。

 それはどこまでも裏のない、彼女の素直な気持ち。

 ――あぁ、もう。この方はなんてまっすぐな方なのかしら……。

 胸の奥が温かくなるのを感じて、自然と私の頬も緩んでしまう。


「カーラ様、それ以上は仰らならないで。お礼を言わなければならないのは私の方なのです。カーラ様もご存じの通り、私がこの社交界でレディらしからぬ振る舞いをしてきたのは、誰もが知る事実。それでもカーラ様は、私に向き合ってくださいました。それにカーラ様がいなければ、私が今こうしてウィリアム様の隣に座っていることは、きっとなかったでしょうから」

 これは、紛れもない本心だ。

 あの日、森の岸壁に彼女がいなければ、私は川に落ちることはなかった。ルイスとあの契約を結ぶことも、ウィリアムと心を通わせることもなかった。

 全ての運命は、彼女との出会いから動き出したのだ。


 けれど、そんな事情を知る由もない彼女は、不思議そうに瞳を揺らす。

 そのどこか不安げな表情を見て、私は決意した。

 彼女には話しておこう。いや、話さなければならない。

 私がウィリアムと婚約したのは、ただ自分の保身の為であったということを。そして、いつか私が去った後、彼を支えてくれるのは彼女しかいないのだから。

 ちらりとウィリアムを見ると、彼は私の意図を察したのか、静かに微笑んで頷いてくれた。


「私、カーラ様に謝らなければならないことがありますの」

「……え?」

「私とウィリアム様は、もともとお互いの利益の為に婚約したのです。そこに相手を想う気持ちはありませんでした。私は本当は誰とも結婚するつもりがありませんでしたし……ウィリアム様も、恐らく同じようなものだったのでしょう」

 私の告白に、カーラ様の瞳が見開かれる。

「それは……政略結婚、ということですの?」

 貴族社会において、愛のない結婚は珍しいことではない。けれど、純粋な彼女にとって、お互いに少しも気持ちが無いまま婚約することは想像もできないのだろう。

 ましてウィリアムは、私との婚約前は全ての縁談を断り続けていたという。そんな彼が選んだ相手に、好意を持っていないとは思いもよらなかったに違いない。

「政略結婚……とは少し違いますけれど、お互いにメリットがあったのは確かです」

「メリット……ですか?」

 戸惑うカーラ様に、私は言葉を重ねる。

「私がウィリアム様にお願いしたのです。婚約を受け入れる代わりに、ある条件を守って欲しいと」

「条件?」

「はい。決して私をお愛しになられぬように――と」

「……っ」

 カーラ様の細い肩が、びくりと揺れる。

 どうしてそんな条件を提示する必要があったのか。なぜウィリアムがそれを受け入れたのか。

 混乱する彼女に、今度はウィリアムが静かに語り掛けた。

「そもそも、俺が縁談を断り続けていたのは、誰かを愛する自信がなかったからなんだ。俺はこれまで人を本気で愛したことがなかったし、愛だの恋だのというものは面倒なものだと思っていた。だから彼女からその条件を提示され、都合がいいと思ったんだ。愛がなくともやっていける相手だと知って、これ以上ない相手だと思った。――それもあって、カーラの気持ちをあのような形で断ることになってしまい、申し訳なかったと思っている」

「……そう……だったんですの……」

 ウィリアムからの予想外の告白に、カーラ様は言葉を失ったようだ。

 誰にでも優しく接する完璧なウィリアムが、内心ではそんな冷めた考えを持っていたとは、夢にも思わなかったのだろう。

 彼女は視線を彷徨わせ、再び瞳を揺らす。

 ――けれど。

 すぐに彼女は顔を上げ、ふわりと花が咲くように微笑んだ。

「でも、私にそれを仰るということは、今はお互いのことを想いあっていらっしゃるということなのでしょう?」

 まっすぐな声。その眼差しには、一転の曇りもない。何の疑いも、憂えも映っていない。

 そんな彼女を見て、私は心の底から思った。

 ――ああ、この方には敵わないな、と。

「ええ……少なくとも、今の私は彼を愛しております」

 そう微笑み返すと、更に笑みを深くするカーラ様。

「アメリア様、お二人の事情をお話しくださりありがとうございます。私、ウィリアム様のお相手がアメリア様で本当に嬉しいですわ。どうかお幸せになってくださいましね」

「はい、必ず」

 私が頷くと、カーラ様も嬉しそうに頷き返してくれる。

 その穢れのない笑顔を見て、私は心から安堵した。

 これで一つ、心のつかえが取れた気がする。

 現時点ではどうなるか何も決められていないけれど、私がどんな選択をしようとも、きっとカーラ様はこれから先もウィリアムの傍にいてくれることだろう。

 それが恋人や夫婦という関係性ではなかったとしても、彼女がウィリアムを遠ざけることはない。それを今、確認することができたのだから。


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