『てんし』と悪魔はよく似ている
条件：「て」「で」「ん」「し」「じ」を使用してはならない
うちの家内は、悪魔のようだ。
酒も煙草も止められ、大好きな油ものは目の敵にされる。日々山のような野菜が卓に並び、マヨネーズも取り上げられた。無味のサラダを飲み込む切なさよ。俺はうさぎかと暴れそうになるのをどうにか堪えやりすごす。
「家内は俺から娯楽を奪い、何がやりたいのだろう」
当直だと嘘をつき、こっそり気に入りの小料理屋の許されざる美味に酔う。酒場の呑み仲間に愚痴をこぼすと、特に気の合う友――体形がそっくりなのだ――は得意げに語った。
男曰く、彼の妻は女神のように心が広いのだと言う。入籍以来、彼の生活に口を挟むことはただの一度もないのだとか。
「毎日ビールが呑めるのかい？」
「まずはビール、次はハイボール。寒くなったらホットウイスキーもたまらないね」
「だが、酒を呑めば肴が食べたくなるだろう？」
「当たり前だ。オーソドックスな乾きものもいいが、妻が作るつまみがまた美味い。ついつい、毎日呑み過ぎるのだけが悩みの種だ」
友の笑い声とともに、ふくよかな腹が幸福そうに揺れる。俺など、土日ともなれば、家内にメタボチェックをされるというのに。思わず口元を歪めた。
「悪魔みたいなうちの家内とは大違いだ」
「うちの嫁はこの世界に舞い降りた御使いなのさ」
素直に妬みを口にすれば、彼は気の毒そうな目をする。
「うちの嫁をあなたの奥方に会わせるのはどうだろう。夫の声は耳に入らなくとも、同性のアドバイスならばまた違うだろうよ」
なるほど一理ある。顔を綻ばせつつ家に帰った俺が家内にそのことを告げると、嫌嫌ながら彼の奥方に会いにいくことになった。ところがだ。約束の日にいそいそと出かけたはずの家内は、予想よりもずっと早くの帰宅となった。何があったというのか、日頃から我が子のように愛するケリーバッグを床に叩きつけながら、こちらを睨みつける。
「何を思ったのか聞きたくもないけれど、あの女とはもう二度と関わりたくないわ。あなたも己の身が大切なら、彼ら夫婦に関わるのはやめなさい」
結局、友達が呑み仲間なこと、家内の目を盗みつつの不摂生がバレたこともあり、俺と彼の仲は途切れた。
ある日、奇妙なことに家内から外呑みの許可が降りた。日々の生活の改革により、かなりの効果が見られたごほうびだそうだ。成果が数値に表れたことにより、苦行僧のような生活からは逃れられそうだ。
家内曰く、「あまり抑圧すると、こそこそ飲み食いされる。それならば目が届くうちに羽をのばされる方がよっぽどいい」のだそうだ。あまりの言いようにがっくりするものの、不平など言えようはずもない。
さあ、せっかく許可をいただいたのだ。一体何を食べに行こうか。迷ったのち、俺は久かたぶりに例の小料理屋に向かうことを決めた。微妙な頃合いのためか、店に他の客はいないようだ。驚く女将に声をかけられた。
「あら、お変わりなさそうね？」
「どうもご無沙汰っす」
「お見かけすることがなくなり、どうなさったのかと」
「はははは、家内に見つかり、ひどく咎められたのがちょっとね。まったく、悪妻どころか悪魔だよ、家内は。夜の小さな贅沢ひとつ、許されない」
「なるほど、それなら今日もこっそりと？」
「ところがどっこい、家内から許可をもぎとったのさ。ドクターたちも苦笑いだったっけ」
大袈裟に肩をすくめると、女将はけらけらと笑った。
「いい奥さまね。悪魔などと言ったら罰が当たるわ。あなたの身体に気を配り、油や砂糖に気を付けた料理を作る。不味いと評されようが、めげずに作り続けるのは思ったよりも辛いものなの。夫のことを気にせずに、好きなものだけ振る舞うほうがずっと楽に喜ばれるのに」
その台詞を聞き、不意にあの恰幅の良い友達を思い出す。女神のような彼の奥方は、彼の生活に小言を言うことはないということだったが。どうも女将の言い方だと、彼を甘やかすばかりの奥方は、あまりよいものとは言えないようだったが。
「そういえば、例の彼は見かけます？ 俺の外呑み発覚以降、メールも出せず。また彼と呑めたらいいなあと思ったり」
「ああ、彼は先月お亡くなりになったわ。こう言っちゃ悪いけれど、不摂生がたたったのよ」
高血圧やら糖尿病やら、痛風などありとあらゆるものを患ったと聞き、思わずぞくりとする。彼の今際を想像すると、ビールを呑む気が失せる。代わりにお冷やをあおった。
「そうだったのか。お悔やみに伺いたいが、まずは彼の奥方に一報入れねばな……」
「それが、彼の葬儀後、奥さまはすぐさま家を売却されたそうよ。もともと意に染まぬ形の入籍だったとか。大切な恋人がいたというのに、傾いた家業のために売りとばされたのだともっぱらの噂よ」
「まったく、今をいつだと」
「令和の世だろうが、ありえるわ。それに最後に奥さまを見かけたひとが言うには、今にも踊りだす勢いだったとか」
夫に先立たれた気の毒な若妻。けれども奥方こそが、夫の早逝を祈り続けた可能性もある。柔らかな微笑みの裏にあるのは、悪意と殺意。
――うちの嫁はこの世界に舞い降りた御使い――
彼の言葉がこだまする。悪魔の姿は、想像するものとはかなり異なるようだ。
悪魔のように冷酷なはずの家内は、悪魔どころかただの菩薩なのだと俺の理解はようやく追いついた。
