『きぼう』は古びた小箱の奥底に
条件「き」「ぎ」「ほ」「ぼ」「ぽ」「う」「ぅ」を使ってはならない。
「姫、お迎えにまいりました」
突然庭からかけられた声。朽ちかけた建屋でお茶を飲んでいた私は、欠けたティーカップをテーブルにおろした。
どこから無理矢理入りこんだのか、男には枝葉がからみついている。庭に生えていたハーブは、踏み潰されたにちがいない。
地味な色合いの草花に、どれだけ私が救われたかなど、彼らは考えもしない。ただ己の正しさを振りかざすだけ。
男が、私の前にひざまずいた。こんな粗末な身なりをした私などに頭をさげるなんて、滑稽なこと。
「ああ、おいたわしや。我らがお迎えにあがるのが遅くなったばかりに……」
捨ておかれるのは幸せな部類なのではないかしら。殺されずに済んだわけが、駒として用いるためだったとしても。魔力無しの穀潰しと判じられていたのだ、命をとられてもおかしくはなかった。
無言をつらぬく私に、彼は手を差し出した。
「姫、御手を」
言われるがまま、彼の手をとる。かつて母が、私に連なる女たちが行ったそのままに。
姫だなんて。まったく、いつ知られたのか。私が力を隠していることに。
母は聖女だった。神殿にて崇め奉られ、多くの神官たちにかしずかれた。それがある日顔も知らぬ金持ちの妾におとされ、正妻によって毒殺された。
母の、そのまた母もまた聖女だった。怪しげな術で、対立する国々を混乱に陥れた。お役ごめんになった彼女は、魔女として処刑され、遺体は野晒しにされた。
私はどちらの道をたどるのか。
「さあ、早く」
遠くで悲鳴が響いている。こちらをあおる熱い風に、彼らが一帯に火を放ったのだと知れた。
私は、急いで戸棚を開けた。取り出した小箱を目にして彼が眉をよせる。
「たったひとつ残った母の形見なのです」
まったくのでまかせをしおらしく告げる。瑠璃や玻璃よりも、珊瑚や真珠よりも大切なそれを、胸元にしまいこむ。これさえあればいい。これ以外、いらない。
「火のまわりが早い。ご無礼お許しを!」
私の答えなど待つこともなく、男の肩に担がれる。かどわかしもよいところだ。
ひどい揺れに耐えられず、私は恥も外聞もなく男にしがみついた。
聖女だの魔女だの馬鹿らしい。私の価値は私が知っていればそれでいい。
「虐げられた哀れな聖女」を連れて帰れば、彼は出世するのかしら。あるいは、祖国にとって、見逃せないくらいの利となるのかしら。
いずれにせよ、私には、関係のないこと。飼われることは、今までもこれからも同じなのだから。
――ずいぶんと痩せておられる――
――いかがすれば、心穏かにお過ごしいただけるのか――
体がふれあっているせいで、彼の声が流れ込んでくる。その優しさに触れたくなくて、唇をかんだ。
信じたところで、苦しむだけ。夢など見ても仕方がない。
ああ、それでも。今、この瞬間くらいは、男の言葉の甘さにひたってみるとするか。空を飛ぶ渡り鳥が、わずかばかり羽を休めるのと同じく。
彼の体温は、意外にも心地よく、身を委ねたくなる自分が何よりも恐ろしかった。




