『へんしん』願望は捨てられなくて
条件:「へ」「べ」「ん」「し」「じ」を使用してはならない
朝起きたら、セミになっていた。
そういえば昨夜、酒を飲みながら、「働きたくない。人に向いていない」とは言っていた。けれど、なぜセミなのか。どうせなら、猫とかがよかった。できれば、金持ちに飼われているやつ。
巨大な甲虫や獣にならなかっただけよいのか。だが、結局はセミである。
夏はもう終わった。このままではいくばくもないうちに、絶命するだけだ。
***
家の中でぷるぷると震える。ああお腹が空いた。ダイエットなぞ忘れて、昨夜スナックをむさぼればよかった。
テーブルに飲みかけのチューハイはあるが、口の構造の理由か吸うことができない。せめてクワガタやカブトになっていればゼリーで命を繋られたのに!
すると、来客を告げるチャイムがなった。そういえば今日は朝から打合わせの予定だった。音高くドアが叩かれ、ゆっくりと扉が開かれる。
嘘でしょ、鍵もかけないで寝てたの?
ああ、わがことながら乙女の生活とは思えない。
***
「ご在宅ですか」
こ、この声は!
うちの課が誇る美形後輩ではないか!
ああ、こときれる前にもう一度会えてよかった!
ありがとう、神様。ありがとう、イケてる後輩。せめてその腕の中で果てさせて!
「ギ、ギギッ、ギチチチチチチチチチ!!!」
ありったけの力で、飛び上がる。いわゆる『セミファイナル』だ。
恋する乙女を受けとめて。見よ、セミのリビドーを。
「ぎゃ、なっ、わあああああああ!」
だが、あっさりはたかれた。痛いな、泣くぞ。廊下でひっくり返ったまま、ぶるぶると震える。
「はあ、可哀想に」
嫌味で有名な同僚と目が合う。ポケットから、ちり紙が取り出された。
きいいいい、素手では触れないってか。悪態をついていたはずなのに、手は目の前のものにすがりつく。
そのまま同僚はアパートを出て、ちり紙ごと近くの遊歩道の木に置いてくれた。
「そう嫌がるな」
「いやいや、いきなりセミにアタックされたら誰でもパニクりますよ! あ、お局さまも、家にセミが出て、焦って家を出たあげく、怖くて戻れないのでは? まったく、迷惑なひとだなあ」
はあああ。『セミファイナル』でビビってたお前が言うな! アウトドア大好きとか言ってただろうが!
けっ、何がナイスガイだ。もう蜜飲むっきゃねえな。あー、ケヤキうめえええええ。
***
目が覚めたとき、なぜか頭が爽やかだった。からだにたまっているはずのアルコールもまるでない。生まれ変わったかのような心地よさ。
大嫌いだったはずの同僚のことを想像すると胸がときめく。
あいつ、口は悪いけれど、納期がヤバいときとか、いつもお世話になってるような……。おりをみて、お礼でもするか。
今日はいつもより早めに出かけよう。遊歩道をゆっくり歩くのもよさそうだ。




