月は『ゆめ』など見るはずもなく
第24話、第25話、第26話はアンリ様主催の企画「告白フェスタ」参加作品です。
条件:「ゆ」「め」「ゅ」を使用してはならない
まだ幼い少女が輿入れしたのは、夏でも残雪がそこかしこに見られる北国であった。国境を越えた場所に約束の出迎えもなく、それでも厳かに婚礼行列は進む。険しい山道だが、このまま行けば明け方には麓に辿り着くだろう。
少女の吐息が、一時ばかり漂いすぐに消えた。
もとより愛情など望むべくもない結婚である。この婚姻は、双方の国益に合致すればこそ。王族の血を引く男と女でありさえすれば、ただそれだけで誰であろうと構なかったのだ。
戦に負けた北の国にしてみれば、少女は和睦の証とは名ばかりの厄介者。捨て置かれれば儲けもの、慈しまれることはあるまい。
大国の皇女として生まれたからこそ、少女は己の立場をよく弁えていた。この国の王とやらは、生まれつき女が途切れたことがないのだという。愛娼や側室がすでにいるのなら、閨に呼ばれることもないだろう。日陰者で生涯を終えるかもしれない。
にも関わらず、少女はうっすらと微笑んでいた。小さな窓の向こうにあるのは細い月。広い背に出来た掻傷のようなその姿にこいねがう。夫君に顧みられないならば、いっそ本望だ。少女は自らの腕で小さな身体をかき抱いた。もう二度と会うことのない、美しい想い人の残り香を思い出しながら。
たとえ未来は選べずとも。ただこの心だけは己のものである。
馬車が唐突に止まった。よもや野盗ではあるまいな。少女は小さく舌打ちする。ここで彼女が野垂れ死にでもすれば、ようやく終わった戦の火が上がる。戦うべきか、逃げるべきか。小太刀を持って僅かに迷ったその時だ。
「約束通り、迎えにきたぞ」
無作法に扉がこじ開けられると、朗々とした声が響き渡った。どうみてもまともとは言い難い男が、下卑た笑みを浮かべている。身に纏っている毛皮のせいか、酷く饐えた臭いがした。
「一丁前に警戒などしおって。この国を担う男ぞ。心配せずとも、子どもに手を出すほど落ちぶれてはおらぬわ」
からかうような男の物言いに、少女は顔をひきつらせる。信じられぬことに、盗人に思われた男こそが、この国の主であるらしい。
「まったく、早く育って俺の子を産むのだな」
この痩せっぽちが。粗野で気品のかけらもない、蛮族の長はそうのたまう。無遠慮に頬や肩を撫で回されて、少女は苛立たしげにそっぽを向いた。ごつごつとした掌も、どこかかすれた低い声も、あの方とは何もかもが異なるというのに、この腕を振りほどけないのはなぜなのか。
「全部忘れさせてやる。さっさと俺のものになれ」
ああ、この男はどこまで知っているというのだ。心の内にこうもあっさりと踏み込まれるとは。自身の馬に乗せようというのだろう、少女の身体は簡単に男に抱えあげられる。髪の飾りがしゃらりと音を立てた。
それが不快ですらないことが哀しかった。
すべてを相手に預けたくなってしまうほどの力強さが悔しかった。
か弱く、愚かな、世間知らずの皇女。侮り、嘲るような男であれば、どれほど良かったか。いっそ白々しく素知らぬふりをしてくれたならば。
俯いて唇を噛んだのを泣いていると思ったか、頤を無理矢理上に向けられる。少女と真っ直ぐに向かい合う男は、どこか地を這う獣にも似ていた。
「喜べ。狼の番は生涯にただ一匹だけだ」
だから何だと言うのだ。睨み付けてやれば、まるで愛おしいとでもいわんばかりに逞しい腕の内に囚われる。大切にしまいこんでいたはずの甘い香りが、知り合って間もない男の濃い草いきれの匂いにかき消された。
ああ、どうして……。
少女の言葉は聲になることもなく、夜はしんしんと更けていく。




