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フォルティス・オディウム  作者: たつみ暁
番外編2――失われて、取り戻す――
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03:壊れた時計は進まない(3)

 日が暮れた後のギュスターヴ邸の門扉は、固く閉ざされている。その前で、エレナはバスケットを手に、緑の瞳を瞬かせた。

 イリオスが川岸に落としていった懐中時計。それを届けにいくと家族に言うと、親戚とはいえ領主の家に手ぶらで行くのは忍びないからと、ラズベリーとクリームチーズのパイを持たされた。それが焼けるのを待っていたら、こんな時間になってしまったのだ。

 まだ家の誰も寝付いている時間ではないだろうが、呼び鈴を鳴らすのも少々躊躇われる。しばし思案して、エレナはかつてイリオスから聞いた内緒話を思い出した。

『門を閉ざされて困った時は、ここから逃げ出すんだ』

 邸宅の外壁を回る。果たして目指す場所に、目的のものはあった。

 人一人がくぐって通れるほどの穴。

『僕の祖父が子供の頃、やっぱり家庭教師から逃げ出す為に、一年かけて開けたんだって』

 身を屈めて通れば、邸の裏庭に出た。穴は草叢や木の根で巧妙に隠されていて、たしかにこれは、知っている者でなければ気づけないだろう。

(イリオスに会ったら、すぐに帰らないと)

 彼の部屋は二階だ。泥棒をする訳ではないが、後ろめたさを背負いながら草をかき分けていると、人の話し声を聞きつけて、エレナはびくりと動きを止めた。咄嗟に身を低めて、周りから姿が見えないように隠れ、様子をうかがう。

「では、手筈通りに」

 聞こえてくる声、これは、イリオスが慕っている長兄ランティスのものだ。一体誰と話しているのだろう。身を潜めねば、という危機感より、興味が勝って、草叢から少しだけ頭を出す。

 そこにいるのは、たしかにランティスであった。しかし向かい合うのは、粗野な出で立ちをした、場末の酒場に用心棒としていそうな男で、明らかに真正面からギュスターヴ邸に出入りを許されるような輩ではない。

「ああ、これは前金だ」

 そんな男から、ランティスは、じゃらじゃらと音をさせるイージュ金貨が詰まった袋を渡され、にやりと粘ついた笑みを浮かべる。家同士の交流で顔を合わせる時には絶対に見せない、悪鬼のような顔だった。

「しかしあんたも悪い男だな。『陥落の花』の輸出を、弟の思いつきにさせるなんて」

「私を慕う良い弟だよ。ばれたところで、喜んで犠牲になってくれるだろう」

 二人の言葉に、エレナは愕然と硬直する。『陥落の花』は、子供でも知っている、依存性の高い麻薬だ。一度吸ったが最後、文字通り身も心も陥落し、理性を失って、最後には廃人となる道しか無い。しかも彼らの口ぶりでは、その禁じられた麻薬の取引の罪を、イリオスに着せるつもりでいるらしい。

 イリオスに知らせなくては。貴方の尊敬する兄は、周りが思っているような優秀な人間ではなかったと。一刻も早く逃げるべきだと。

 だが、その焦りが彼女の命取りとなった。慌てて身を翻そうとしたはずみで、複雑に絡み合った木の根に足を引っかけ、「あっ」と悲鳴をあげてその場に倒れ込んでしまったのだ。

「誰だ!?」

 男の粗暴な声が聞こえ、即座に走り寄ってくる。逃げる暇も無く、エレナは男にのしかかられ、地面に縫い止められていた。

 ぎりぎりと、強い力で手首を締め上げられて、エレナは痛みに顔をしかめる。後からやってきたランティスが、こちらの顔を確認して、

「おや、これはこれは。愚弟の女友達(ガールフレンド)ではないか」

 と目を細めて、いつもの柔らかい笑顔を見せた。だが、それは常に落ち着いた上品な佇まいを見せていたギュスターヴ家の嫡男ではなく、後ろ暗い思いを抱えた悪人が見せる嘲笑であった。彼はエレナの傍らに放り出されたバスケットを見、「ああ」と白々しく肩を揺らす。

「弟に用事だったのかな」

「イリオスに罪をかぶせる気ですか」

 圧されまい、と決意してぎんと睨みつければ、「それも聞いていたんだね」と、鳶色の視線が、冷たく見すえ返し、信じられない事を言い渡してきた。曰く。

「私がどうするかは、君次第だよ」

 それが何を意味するか、エレナはわからない歳ではない。だが、ここで男二人相手に抵抗する事も出来ず、したところでくびり殺されるか、この場で死より屈辱的な目に遭うか、そのどちらかしか道が無い。

 ぎゅっと唇を噛み締めて黙り込んだ事で、決意を読み取ったのだろう。ランティスが男に命じる。

「離してやれ」

「こんな上玉を独り占めなんて、あんたも小賢しいもんだなあ」

 男の手がエレナを解放する。だが、真の束縛はこれからだ。心臓がそのまま止まるのではないかというほどに高く脈打っている。

 ランティスが丁寧にバスケットを拾い上げ、エレナの背中に恭しく手を回して立たせると、その手をそのまま腰に滑らせる。

(イリオス)

 堪えようとしても、頬を伝うものは止まらない。

(イリオス)

 何度心の中で名を呼んでも、少年には届かない。それを思い知りながらも、エレナは愛しい少年を呼び続けるしか出来なかった。


「エレナと婚約したよ」

 朝食後、部屋へ戻るところを長兄に呼び止められ、彼の口から出た言葉に、イリオスは驚愕にとらわれ、目を見開き絶句した。

「夜分にわざわざ私を訪ねてきたのだ。健気な事だね」

 一体全体どういう事か。訳がわからない。つい昨日まで、自分と遊んでいたではないか。『貴方を、近くで見ていたい』と、告白じみた言葉まで贈ってくれたではないか。どういう心変わりだ。

「ああ、そうそう」イリオスの驚きにも取り合わず、兄はひとつの輝きを取り出し、イリオスに差し出す。

「『ついでに』お前にこれを届けにきたよ」

 視線を下ろせば、自分の懐中時計が、廊下の窓から差し込む朝日を受けて、やけに鈍く光を反射しているように見える。世界の全てが、色褪せて見える。

 のろのろと手を伸ばし、時計を受け取ったイリオスに、兄は追い打ちをかけるように満足げな笑みを見せた。

「美味だったぞ」

 鉄の棒で頭を殴りつけられたような感覚だった。

 嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。その思いだけがイリオスの脳内を巡り、気づけば踵を返して走り出していた。邸を飛び出し、道を駆けて、エレナの家へ。

 玄関を乱暴に叩いて呼び出せば、エレナの母が「イリオス!?」と心底驚いた様子で顔を見せた。

「あの子は昨夜、お前さんのところへ行くって出かけて、遅くに物凄い暗い顔をして帰ってきたと思ったら、そのまま部屋に閉じこもって、出てきてくれないんだ」

 やはり、兄の弁は嘘だ。彼女は自分を訪ねてきたのだ。心変わりなどしていない。その言葉を、エレナ自身の口から聞かなくては。階段を駆け上がり、少女の部屋の扉を叩く。

「エレナ! 僕だ! 開けてくれ!」

 しかし、何度呼びかけても、扉を叩いても、応えが返る事は無く、閉ざされた鍵が開く気配も無い。業を煮やして、重たい蹴り一撃を、扉に叩き込む。

 蹴破られた入口から、カーテンの閉じきった暗い室内に光が差し込む。暗がりに目が慣れてきたイリオスの視界に入ったのは。


 天井からぶら下がる影の、色を失って青白くなった細い足だった。

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