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明暗43

 西田はアドバイスに従い便箋を開くと、吉村にも見えるようにして読み始めた。便箋は多少酸化して黄色くなっていたがボロボロという程ではなく、字はペンと思われるもので青インクで書かれていた。


※※※※※※※

 

 この手紙は同封してある、仙崎大志郎という人物が、生前に貯め続けた隠し砂金の遺産の分配を記した証文の経緯と説明を記したものです。自分は戦地に招集されることになり、もしもの場合には、証文の経緯を第三者として証明できるものが居なくなってしまうため、ここに書き残すことにいたしました。父さん母さんにおいては、私にもしものことがあった場合には、これを読むように言い残しておきますが、驚かないでいただきたい。当然のことながら、これを読む機会が二人に訪れないことを、自分自身の為にも願ってやみません。以下に記させていただきます。




 私、佐田徹は、仙崎大志郎の生前の意思に基づき、証文の4名に仙崎氏の遺産である金を等分に分け与える義務を負い、証文においてその権利を確定させるものとする。

 

 自分と仙崎氏の関係は昭和十二年より勤務した滝上金山時代に遡る。滝上村(作者注・現在は北海道・オホーツク総合振興局・滝上町に当たり、遠軽の北西部に位置)の川に砂金掘りとして入っていた仙崎氏と、釣りで渓流に分け入ることが多かった自分がたまたま親しくなったことが始まりである。仙崎氏は自分より早目に滝上を去ったが、自分がその後、北ノ王鉱山で勤務し始めると、生田原村で砂金を掘っていた仙崎氏と偶然再会。仙崎氏の仮住まいの小屋を頻繁に訪ねるなど、更に交流を深め信頼されるに至り、このような責を負うことになった。仙崎氏には遺産を残す血縁者も居らず、もしもの場合には、自分の使用人に自分の400匁の隠し砂金を分け与えるように、自分に常々言い残していた。故に使用人である三名と死亡した免出の遺児(免出が生前に「会ったことのない子供がいる」と常々言っていたと桑野が証言していたため)にこれを分け与えることにした。尚、この依頼を受けた時点で、自分自身も仙崎氏より金五十匁を既に受け取り済みである。


 仙崎氏は昭和十六年六月十八日の未明から早朝に掛けて病死したと思われる。当日早朝に異変を受け、北ノ王鉱山事務所まで山より下りてきた桑野欣也によって連絡を受け、仙崎氏の山小屋に駆けつけたものの、桑野の言う通り既に死亡していた。かねてより、「自分に何かあった場合には、使用人に平等に分けるように」との言葉に従い、金を分け与える必要があると考えた(この時点では使用人にそれについて明かしていなかった)。医師ではないため、断言は出来ないが、遺体に不審な点は見当たらなかったこと、仙崎氏が大変信頼していた桑野の説明、表情からも、病死との確信に至った。亡くなる直前に突然夜中に大きないびきをかいていたということから見て、脳関係の何かが死因ではないかと当時考えた次第。最終的には医師の判断が必要かと考えたが、使用人の中には、「自分達が疑われる可能性がある」として、公にするのをあまり良い顔をしないものがあったため、そのまま埋葬することになった。流れ者のような身分の者もおり、そういう感情があったのは理解できなくはなかった。


 尚、仙崎氏が死亡した時点で使用人は五名居た。自分は一度仕事に戻るため、遺言の説明を同日の仕事の後にしようと考えていた。ところが十八日の昼過ぎ、そのうちの免出 重吉が、高村 哲夫に殺害されてしまった。残る、最終的に遺産を受け取ることになった三名が、仙崎氏埋葬の後、生田原の中心部に前記2名を留守番にして買い出しに行った間に殺害されたた模様であった。高村が小屋にあった仙崎氏や使用人の金品(遺産は元々仙崎氏が隠してあるので無事)を盗って逃亡しようとして、それを免出が止めたところ殺害されたものと見られる。当然、前記の「良い顔」をしなかった者には高村も含まれていた。


 その後戻って状況に気付いた3名の追跡により発見された高村は、激怒した、桑野を除く二名により殴打され殺害されたものである(あくまで三名よりの伝聞であるが、仙崎氏だけでなく自分から見ても、一般人基準としても教養があり実直な、信用すべき桑野の言葉に嘘はないものと思われる。他二名も桑野は加担していないと証言した。また殺害行為は、主として伊坂が怒りに任せて木刀で殴りつけ、北条がこれに追従。後から桑野が止めに入るも間に合わなかったと、三名それぞれ一致して証言していた)。これにより免出の遺児(桑野達が聞いていた本人談では、婚姻を経ておらず、私生児という形であったようで氏名とも不詳らしい)にも分配し、高村関係には一切の分配はないものとすることとなった。免出は仙崎氏の横に埋葬した。当初高村は放置して熊にでも食べさせてしまえという案もあったが、事件が発覚する可能性が高くなるという私と桑野の反対により、二名とはやや離れた場所に埋めたものである。


 仙崎氏はおそらく病死なので警察には通報する道義的必要性はないものの、免出、高村の件は明らかな殺人ではあるが、免出を殺したのが高村であり、また高村には殺される要因があることから、当方はこの件につき結果的に黙認したもので、警察沙汰になるのを避けた。仙崎氏死亡の際、医師への通報をしなかったのと同様の理由もあったことは理解いただければ幸いである。


 最終的に残る3名に仙崎氏の生前の意思を説明した上で分配を確定させ、それぞれに同じ証文を作成して渡した。だが、自分もあくまで仙崎氏より聞いていただけの、砂金が埋められていた場所の確定並びに掘り出しに時間が掛かること。同時に事件の発生もあり、早急に三名が居留地から去る必要があること。相手の私生児となっているはずの、免出の遺児の姓名、所在が判明していないことの三点により、その時点では分配そのものはしなかった。


 これを記している昭和十九年二月二十日時点においても、当然のことながら未だに分配はされていない。三名には落ち着いた段階でそれぞれ自分と連絡を取るように伝えた。分配は三名と免出の遺児に確実に分配できるようになった適切な時期に、順次行うものと伝えておいた。ただ、その適切な時とは、当方が判断すべきものとして決まったが、三名がその後、生田原の自分の前に現れることもないまま札幌へと自分が移転。ついには招集されるに当たり、場合によっては、残る三名によって、免出の遺児分を残した上で分配するということも許可せざるを得ないと考えている。以下に説明する埋められている場所は、未だ当方しか知らない状態である。


 仙崎氏が自分の金を埋めたと生前自分に語った場所は、国鉄石北本線常紋トンネル生田原出口より三百五十メートル(百尺)程生田原方面へ行った場所から、生田原方面に向かって右に見える仙崎氏の小屋から真東に斜面を三十メートル強(十尺)程登った場所にある巨石の真下三メートル(約一尺)と聞いている。だが未だ自分自身存在を確認したものではない。ただ、仙崎氏の性格を考慮すると実在するものと確信を持っている。



 以上がこの証文が出来た顛末の一切であります。昭和十八年の金山廃止令(作者注・正確には金鉱山整備令)により、北ノ王鉱山も廃鉱となったため、既に書いてありますが、父さん母さんが知っているように私は札幌で勤務することになってしまいました。そして、そのことについては三名は知らないままであります。念のため、小樽の実家については、三名が生田原を去る前に告げており、三名は最終的には小樽の家を訪れる可能性が高いと考えております。万が一のことが自分にあった場合、権利者の中で、同封されているのと同じ形式の証文を持って訪れる者があれば、父さん母さんにおいては、住田の遺児の判明前であっても、三名により免出の遺児の権利分を残した上で分配、共同管理することで発掘を許すと、埋められているとされる場所も含め伝達することを望みます。伊坂においては、高村の殺害に主導的に関わるなど、短絡的、激情的であり、自分から見て人間的に信用出来ない面があることから、伊坂単独で訪れた場合、これを彼には伝達されないことを望むものであります。


 三人の風貌を念のため書いておきます。伊坂太助は、丸顔で目は大きく、左の肘あたりに大きなほくろがあります。北条正人は瓜実顔で目は細く、前歯が2本抜けていました(その後もっと抜けたかもしれませんが)。桑野欣也は、それほど特徴の無い顔でしたが、元は豊かな家に育ち、岩手の旧制中学に通っていたようで、無骨者が多い人足稼業に従事している人物としては、教養があるように思います。背は意外と高かったように思います。喋ると岩手訛の強い点も特徴です。当然、もっとも重要なことは証文を持ってきていることですので、その点においては厳重にお守りください。出来れば、証文の拇印との比較もしていただけるとありがたいのですが、それはしなくても構いません。桑野以外は右手の親指、桑野は右手の人差し指で押してありますので、目の前で押させて比較していただけるとより正確な持ち主判断が出来るとは思っております。


                       昭和十九年二月二十日 徹


※※※※※※※


 冒頭から、寺川名誉教授の証言で出て来た、おそらく身元不明遺体の「甲」と目されていた仙崎の名前が出て来たことに、思わず顔を見合わせて驚いた二人ではあったが、その先を読み進めるごとに出てくる事実の羅列に、ただただ唖然とするばかりであった。砂金の隠し場所の目印と書かれた「巨石」にも、2人は捜査で何度か見た「アレ」のことだろうという確信があった。

 

 この手紙の内容が事実だとすれば、丁寧に埋葬された、殴打された痕跡があった「乙」は免出、殴打された上で捨てるように葬られた「丙」は高村ということになる。いやあまりに昭和52年の身元不明3遺体収容と状況が符号していたことを考えても、これが作り話だとは到底思えなかった。時系列を見ても、その後に話を合わせて創作することは不可能だ。逆に言えば、あの事件を知らなければ、ただの創作としか思えなかったかもしれない。南雲から照会を受けた、4年前の北見方面本部の担当者が、手紙も証文も相手にしなかったのもわからなくもなかった。


「この内容は、あの3名の遺体発見という時効事案の事情説明になっているってことでいいんですよね?」

吉村は遺族の前とは言え、高まりを抑えきれずに居たが、それは西田とて同じだった。

「そうとしか言い様がないだろ? 問題は伊坂太助という人間が先代の伊坂社長と具体的にどういう関係だったのかということだけだ。そこに実際に『縁』が存在していれば、佐田さんの殺害に伊坂が絡んで来る十分な根拠になってくる。苗字が同じだから親族という可能性が高いのだろうが……」

「しかし係長、1つだけ問題があります。自分達は佐田さんが伊坂と会っていたことから、伊坂太助と伊坂大吉との間に関係があったのではという疑念を抱けますが、『伊坂太助』という名前を見ただけで、当時の佐田さんが『伊坂大吉』との関係を真っ先に疑うとは思えないんですが?」


 吉村の指摘は全くその通りだった。佐田の遺族にせよ、自分と吉村にせよ、伊坂大吉が佐田の失踪に絡んでいるという可能性が高いことを知っているが故に、この手紙を読んだ時点で、伊坂太助と大吉の関係性を疑うことが出来たが、佐田がこれを読んだ段階で、太助と大吉の関係性を「伊坂」というキーワードだけで結び付けられるかは怪しいのだ。伊坂という苗字自体は、そうありふれたものではないが、手紙で初めて読んだ段階で、いきなりそういう発想になるとは思えない。


「吉村の言うことはもっともだな。ただ、篠田が生田原の現場に行って米田を殺すきっかけとなった伊坂からの電話の内容といい、これといい、あまり正確に把握しようとこだわり過ぎると前に進めなくなるから、そこは上手く誤魔化しつつ捜査していくしかないだろ?」

西田はそう答えるにとどめた。


「わかりました。それは保留しておくということで。それで話の続きですが、もし隠し砂金が残っていれば、多少は金策の助けになりますからね」

吉村の発言で西田は重要なことを聞かなくてはと思った。

「すみません、大変失礼なことを伺いますが、佐田さんが失踪した当時、どの程度の資金の必要額、或いは借り入れがあったかおわかりになりますか?」

聞きづらい直接的な質問をすることも厭わなった。

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