明暗42
「それは失礼しました」
「あ、いや……。こちらこそ大人げない。まあ幸い会社の建物、倉庫と土地を手放して銀行の返済も済んだんで、家は残りましたし、従業員に多少の退職金のようなものも出せましたし、我々にも少しは残りました。会社はなくなってしまいましたが……。不幸中の幸いだったのは、丁度バブルの渦中だったので、不動産価値が上がってたことでしたね。今だと確実に厳しかったでしょう」
強がりの類だったかもしれないが、実際バブルが崩壊する前よりは処分価格は高かったのは事実だった。
「行方不明になってから、なにか不審な電話などがあったとか、そういうことは無かったんですかね? 捜査資料には載ってませんでしたけど」
空気を変えようとしたか、吉村が聞いた。
「いえ、身代金の要求とか、無言電話とか、そういうのは一切ありませんでした。あの時も警察の方から聞かれましたが。ですので、少なくとも私達も誘拐とかそういうことではないだろうと」
実由がはっきりと言った。
「警察が割と早目に捜索を打ち切ったんですが、ご家族としては当時抗議のようなものはしたんでしょうか?」
「いえ。確かに金策の目処が付いたと電話はありましたが、実際にそうだったかはわかりませんし、失踪してもおかしくない状況でしたので……。納得こそ出来ませんでしたが、それ以上警察の方に続行をお願い出来るほどの確信もありませんでした」
西田が聞くと明子は力なく語ったが、聞いている側も打ち切りの真相を知る立場としては胸が痛くなった。
「ただ、数年してからちょっと気になるモノが出て来まして、それで一度警察の方に『調べて欲しい』とお願いしたことがあります」
誠の補足で、西田は南雲から聞いていた4年前の話だと直感した。危うく聞き忘れるところだった。
「南雲さんにした話のことですかね?」
「西田さん、そうです。南雲さんから聞きましたか? 聞かされていた伊坂という同じ名字の人物が出てくる話だったのと、父が手紙を初めて見てから行方不明になるまで、数ヶ月程度ということもあり、まあ何か関係あるかと思ったんですが……。警察の方もよくわからないということで、結果的には特に事件とは関係なかったようなんですが」
「手紙でしたっけ?」
吉村が尋ねた。
「そうです。手紙と契約文書? みたいな奴です。かなり古いもので時代背景を考えると、間違いなく戦前のモノでしょう。父の2番目の兄、つまり私にとっては2番目の伯父にあたる、「徹」という人が書き残したモノです。その人は若くして戦死してしまったので、私は当然会ったことはないんですがね……。まあこう言ってもわからないでしょうから、実物を見ていただいた方がいいかな……。母さん、あれどこにあったっけ?」
誠が明子に問うと、明子は立ち上がって何処かの部屋へそれを取りに行ったようだ。
「それにしても、失踪から随分経ってから出て来たってことですか?」
吉村が間をもたせるために会話を続けた。
「そうなんですよ。父が行方不明になってから、何か捜索のヒントになるものはないかと、色々探してはいたんですが、今回のモノは、元は会社で使っていた金庫から出て来ました。倒産した後、家の物置に金庫を仕舞っていたんで、しばらくの間気付かなかったというわけです。これについては、私の父方の祖父母、つまり父の母ですが、父が行方不明になる87年の5月頃に亡くなっていまして、その時の形見分けで父の一番上の兄で「太」という私にとっての伯父がいるんですが、その太から父が見せられて、その後父が保管していたようです。それについては伯父の太自身から聞きました。手紙の中身を読めばわかりますが、徹があの赤紙って奴で兵隊に招集されて、出征間際に私の祖父母に宛てて書いたようです。
誠が言い終わると、明子が手に封筒を持って部屋に戻ってきた。明子はそのまま西田に封筒を渡した。西田は受け取って中身を取り出すと、便箋数枚が折りたたまれていて、それとは別に和紙が1枚折りたたまれて入っていた。
「どうぞ読んでください。どちらにも先程も言いましたが、「伊坂」という名前が記してあって、これは例の伊坂組の社長、伊坂大吉と関係があるのかと思って警察に相談したんですがね……」
誠に勧められるまま、西田はまず1枚だけの和紙の方を手にとって開いた。
※※※※※※※
それは墨で書かれていた。そこには縦書で右から昭和十六年七月五日と日付があり、「伊坂 太助」「北条 正人」「桑野 欣也」「免出 重吉、名不明実子」と記された大きな文字が順に書かれてあった。また、それぞれの下に「砂金百匁割当」とあった。そこからやや右横に離れた位置に、証人「佐田 徹」とあった。これが誠の伯父のことだろう。更に、免出の欄を除いたそれぞれの一番下には拇印と思われる判が押してあった。しかしそれは朱肉の色ではなく、赤茶色のような色だった。西田は血液が酸化したものだと瞬時に判断した。いわゆる「血判」だと認識したのである。覗きこんでいた吉村も、
「これ血で拇印押してるんですよね? あと、押してない「メンデ」? の所はともかく、桑野って人物の拇印以外、親指で押してますよね?」
と小声で尋ねてきた。それに対し、
「この感じは、血判って奴で間違いない。それと、俺達は供述調書にサインさせる時、左手の人差し指の腹全体を押させる方法で印としているから勘違いしてるのだろうが、拇印の「拇」の字は本来親指のことを意味するんだぞ? だから一般的には拇印は親指で押すもんだから、他の拇印はそのまま親指を使ってるだけだろう。免出が押してないのは、文面から見ると、分け与えられるのは、免出とやらの名も判らない遺児のようだから、押して無くて当然だな。それにしても免出って苗字は珍しいな。今まで聞いたことがない」
と西田は説明した。すると黙って会話を聞いていた誠が、
「私もちょっと気になって調べたんですが、広島県に多い苗字らしいですよ。多いと言っても数百人レベルみたいですが」
とミニ知識とも言うべき情報を入れてくれた。
確かに警察が被疑者から取る供述調書に押させる拇印は、通常左手の人差し指だから、吉村がおかしいと思ったのは不思議なかった。ただ、警察が人差し指を拇印(この場合正確には指印という方が妥当かもしれないが)に実質指定しているのは、その方が警察が想定している意味で、「指紋が判りやすい」というだけの理由である。警察は判別しやすいように、指の腹全体を転がすように指紋を取る。一般的な押印の仕方である、「押し付ける」形は、指紋の照合の際にズレが生じるので鑑定が難しくなり、それを避けるためである。そしてその指紋の取り方にもっとも適合しているのが人差し指なのである。尚、一般的には、内規で左手の人差し指を指定している都道府県警が多いが、右の人差し指を指定している県警もある(当小説においては、道警についてどういう規定をしているかわからないため、一般的な左手の人差し指を前提に執筆させていただきます)。
「あ、そうなんですか……。拇印の拇が親指のことだなんて初めて知りました」
いつもだったら、ここでもう一つツッコミを入れるところだが、さすがに遺族を前にふざけている場合ではない。西田は自重した。
「あ、ついでにもう一つ、この字読めないんですが……」
「吉村、これはモンメって読むんだ」
「ああ、聞いたことありますね。昔の単位ですか?」
「そうだ。重さの単位だ」
「じゃあ今の単位で言うとどれくらいなんですかね?」
西田はやられたと思った。吉村の無知を嗤っているが、自分もモンメがどの程度の重さを言うのかについての知識がまるっきりなかったのであった。これは上司の沽券に関わると、黙ったまま脂汗をかきそうになったところで、二人の会話を見守っていた誠が助け舟を出してくれた。
「私もこれを初めて見た時気になりまして、ちょっと調べたんですが、1匁は約3.75gだそうですよ。そして当時の金の価格がおおよそ1g当たり4円で、当時の1円が今の2千から3千円前後じゃないかと言われているようです。色々な物価と比較するとズレが生じるんで、あくまでおおよそですが」
内心かなり助かったのだが、西田は素知らぬふりをして、
「そういうわけで金が百匁となると、ほぼ375gぐらいで、当時売った場合の金額を今の価値にすると4円に375gに平均2500円掛けて……」
と唱えたが、暗算に集中しようとした横から、
「いや、それより4に2500掛けてから375掛けた方がわかりやすいでしょ。375万ですね。ですから4人で当時、今の価値でいうところの1500万ですか。かなりの金額価値ですね……」
と吉村があっさり答えてしまった。結局は吉村に上司としての沽券は砕かれた形になった。
「確かにそうなるかな……」
苦し紛れに西田は吉村の答えを追認した。
「まあ大体そうなるんじゃないかと、私も考えていますよ」
誠もこの時ばかりは、それまでの二人の会話を聞いていただけに、なにか含み笑いしているかのように西田は感じた。いや、ただの「被害妄想」だったかもしれないが。
「それにしても、これは何を意味しているんですかね? 金の分け前を記した契約書のようですが?」
西田は照れ隠しもあり、話を変えようとした。
「それはその便箋の内容を見てくださった方がいいと思います。何となくですがそれで意味が判るはずです」
と誠は真面目な顔で西田に語った。




