迷走67
もう1体のより若いものは「乙」と命名されていたが、その乙の頭部陥没については、「鈍器もしくは重い物体の落下によるものと思われる」との表現だった。「十分に致命傷に値する損傷であったが、それが事故なのか事件なのかははっきり断定は不可であり、物体の特定も出来ない」というのが結論だったようだ。写真を見ても、かなりの陥没痕で、鈍器による殴打であれ、何かの落下であれ、大きな石のような物体ではないかと西田は推察した。
甲の全体像の写真を見るに、袢纏とパッチ姿で、中にはふんどしと綿シャツを着用していたようだ。乙の写真もほぼ同じ服装だったが、下腕から手の甲にかけて、模様の入った布を装着していた。当時の捜査では、その布は、「アイヌの伝統工芸品で、テクンペと呼ばれるもの」であり、儀式や山歩きの際の手の保護のために使われていた「手甲」の類らしい。このことから、乙は「アイヌ人」ではないかと言う説が出たが、これ以外の着用物についてはアイヌを想起させるものは一切なく、乙が持っていた小刀も、アイヌ人ならば柄に独特の装飾が入ったもの(マキリもしくはタシロと呼ばれる小刀、山刀)のはずが、普通のデザインのものだったため、そちらも和人かアイヌ人かの断定は出来なかった。
西田は一度報告書から目を離し、証拠物件のダンボールを開け、ビニールに入っている甲と乙の着衣と着用物を確認した。土に長く埋まっていたため、かなりの汚れがあったが、それなりに保存はされていたように思えた。「テクンペ」と呼ばれる布は、アイヌの独特の模様が入っていたのが、汚れがあっても判別できた。
(テクンペ参考 http://www.city.sapporo.jp/shimin/pirka-kotan/jp/kogei/hos--tek-un-pe/index.html)
再び報告書を読み始めた西田に、少々気になる文章が目に入ってきた。甲と乙には一緒に缶の中にそれぞれキセルと刻みタバコ(タバコの葉を細かく刻んだモノで、キセルに詰めて吸う)の箱が埋葬されていたというのだ。おそらく「お供え」だと見られた。中身は多少抜かれていたが、両方とも半分近くは残っていたようだ。缶の中に入っていたので、保存状態はそこそこだったらしい。直接土中に埋葬されていれば、朽ちていただろう。刻みたばこの銘柄は共に「富貴煙」とあったようだ。当時の「専売公社(今のJTの前身)」に聞き込みしたところ、その銘柄は明治41年から終戦間際の昭和19年まで存在していたもので(銘柄・存在時期共に史実通りです)、これまた時代の特定としては幅がありすぎた」ようだ。
(富貴煙及び刻みタバコ参考 http://ameblo.jp/jibikiya/entry-10225146287.html)
このような状況において、刻みタバコ銘柄の存在時期を考察すると、少なくとも埋葬されたのが戦前であることまでは確認出来た。ただ、それ以上の甲と乙の埋葬時期や生存期をピンポイントで特定するのは無理筋というのが当時の捜査員の考えであった。そして、甲が自然死なのか、乙が事故死なのか他者による危害行為による死なのかも特定できず、時効も絡んで立件しなかった、或いは出来なかったというのが結論だった。また、被害者についての特定は、遡れる範囲での北見方面本部内の行方不明登録者と照合してみたが、やはり年月の経過に限界があり出来なかったとあった。該当地は私有地だったが、地主も心当たりはないという証言をしたようだ。聴取した地主の名前が寺川松之介とあり、おそらく署長が捜索許可を求めた寺川大介の親などの親族なのだろうと西田は踏んだ。
西田が読み終わった頃には既に北村は読み終えて、西田を待っていた。敢えて互いに何も聞かず報告書を交換し、今度は主に「丙」こと、2体の傍から発見された白骨遺体についての報告書を見始めた。




