第七十話 見立て
「そっちはどうだったぇ?」
新田は聞き込みに回っていた智蔵らと合流して、それぞれの話しを聞いていた。
「へい。誰もその様な者達は見ていやせんでした」
「あっしの方もからっきしでさぁ」
皆次々と同じ様に、実りの無い報告をするだけだ。
「そうかぇ。オイラも似た様なもんさ。皆一様に、そんなもんは見て無ぇとさ」
この辺りは江戸から離れているとは言え、鷲明神社が有るおかげで、土産物屋やら飯屋など、神社巡りの遊客目当ての店が殊の外多く、ここに暮らす者の家も集中しているので、西海屋の別宅の周囲は意外と賑わっている。
故に、用心棒二人と宗右衛門が歩いていたら、誰かしらの目に止まっても良さそうな物なのだ。
「とにかく、あの家にもう一度戻って調べ直して見るかぇ」
新田は由蔵の骸が転がったままの、西海屋の別宅へ一旦戻る事を智蔵に促した。
「へい、それがよろしゅうごぜぇやすねぇ」
智蔵も夜も更けて来た事も有り、これ以上聞き回るよりも新田の案が得策だと思った様だ。
一同は件の家に到着すると、改めて由蔵の亡骸や家の中を調べ直した。
「旦那、金蔵は空でやしたぜ」
伸哉が新田に報告をする。
「金目の物は特に見当たりやせんが、どうした事でやしょう?」
智蔵も首を傾げながら、由蔵が事切れている部屋に戻って来ると、新田に問いかける。
「あぁ、こいつの懐にも小銭しか入ぇってなかったぜ。用心棒ってのが、金目の物を持ち出しちまったのかねぇ?」
新田は十手で首筋を叩きながら智蔵に応え、
「こいつぁ逃げて来たは良いが、当てにしてた金が無ぇんで、途方に暮れてたところに、オイラ達が現れたもんだから、捕らわれるくれぇなら、いっその事死んじまおうって、首を切っちまったのかねぇ…」
と、続けて由蔵の亡骸を見下ろす。
「まぁ、調べはまた明日っからなんだがな。とにかく、今日のところは帰るとするかぇ?」
新田が不満気に言って智蔵を見た。
「へい。今、広太を番屋にやっていやす。じきに番太郎を連れて戻って来まさぁ」
智蔵は由蔵の骸の始末を、取り敢えず番屋に預ける事にしていて、広太を使いにやっていた。
「ちっ、なんだかすっきりしねぇ始末になりそうだぜぇ」
新田は舌打ちすると、ぼそりとこぼすのだった。
*
「かなり血を流していますので、中々難しい状態ですなぁ」
源次郎が連れて来たのは、将軍家御典医、桂川甫筑であった。
後に杉田玄白らと共に『ターヘル・アナトミア(解体新書)』を翻訳した俊英、桂川家四代当主、桂川甫周の初代桂川家当主である。
齢六十になる甫筑ではあるが、未だ矍鑠とした物腰で悠々と話す。
「斬られた傷の縫合は、上手く行っております故、心配有りませぬが、血を失っている事と、傷が化膿してしまいそうなのが、気掛かりでございまして、それがこの御仁の生死の境目でしょうな」
甫筑は血を洗い流した手を、手拭いで拭いながら、心配そうに治療の様子を見ていた新之助とみそのに語る。
「うむ。大儀であったぞ」
新之助は将軍徳川吉宗に戻って、老齢の甫筑を労った。
「みその様と言いましたかな。これから熱を出すでしょうから、慌てずに熱を冷ます様にしてくだされ。熱を出すのは悪い事でも無いのでな。頼みましたぞ」
温和な口調で、みそのを安心させる様に甫筑は話す。
「では上様、また明朝にも罷り越します故、これにて」
甫筑は、吉宗に深々と手をついて頭を下げると、今日のところは引き上げて行った。
「では何かあったらこの笛を吹くと良い。ワシの手の者を、この家の周りに待機させておくでな。大丈夫か?」
新之助はみそのに真鍮で出来た笛を手渡す。
「あのぅ。この事は智蔵さんや奉行所の方には、知らせなくて良いのでしょうか?」
みそのは、智蔵達も永岡の安否を心配してるであろう事を気にかける。
「おお、そうじゃったのぅ。ワシの使いで源次郎に向かわせるで、心配するでない。お前さんは永岡を診てやってくれ」
新之助が請け負うと、みそのは西海屋の前の茶問屋に永岡達の拠点がある事を伝え、改めて頭を下げた。
それに頷いた新之助は腰を上げる。
「よろしくお願い致します」
みそのは新之助の背中に声を投げかけ、眠る永岡の額の汗を拭う。
「旦那、しっかりしてくださいよぅ」
みそのは永岡の手をギュッと握り、祈る様に声をかけるのであった。
*
西海屋の周りは、火の手が回らぬ様に火消し達に打ち壊され、悲惨な光景と化していた。
打ち壊された商家の残骸を、未だ西海屋の残り火が仄かに照らしている。
その商家の主人や奉公人達が、無惨に変わり果てた自分の店を、呆然と立ち尽くして眺めているさまは、残酷としか言いようが無い。
西海屋の前の茶問屋は、幸い道を一本挟んでいる事と、火消しや奉公人達が、家屋に水をかけて凌いだおかげで、無事に火事を乗り切ったようだった。
「松次達は未だ戻らねぇのかぇ?」
新田達が花又村から戻ると、火事場に残った三木蔵と留吉の他に、弥吉、新太、文吉は戻っていたが、松次と翔太の顔が見えなかったのだ。
三木蔵らが困惑の表情で頷くと、新田も血の気が引いた様な顔で智蔵を見た。
「まさか、あの化けもんが出やがったか?」
新田が色を無した顔でぼそりと呟く。
「旦那、様子を見て来やすっ」
「あっしもっ」
智蔵達も同じ思いで、今にも部屋を飛び出そうとした時、階下から人がやって来る物音がして来た。
皆が階段に注目する。
「て、大変でやすっ。はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、あの覆面野郎が現れやがったんでさぁ。永岡の旦那は何処かへ逃げたってぇんで、あちこち捜し回ったんでやすが、どうにも旦那を見つけられやせんでぇ」
息急き切って階段を登って来た松次が、矢継ぎ早に言い立てた。
「ど、どう言うこったぁ、松次。もっと詳しく話しやがれっ」
智蔵が松次に詰め寄った。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、へ、へい、すいやせん」
松次は肩で息をしながら応え、今度は大きく息を吸って呼吸を整える。
翔太も膝に手をやり息を整えている。
「すいやせん親分。あっしと翔太が押上村へ行きやすと、家ん中には猪吉と長助が、二人で身を寄せ合う様に震えてるだけで、他に誰も居やせんでしたので、二人に訳を聞いたんでさぁ」
伸哉が松次に桶に水を汲んで来てやると、松次はゴクゴクと、喉を鳴らしながら美味そうに飲んで、そのまま翔太に桶を回した。
「兄ぃ、ありがとうこぜぇやす」
伸哉にちょこんと頭を下げると、松次は話しを続ける。
「覆面野郎の気配を感じた永岡の旦那が、外に出て行きやすと、中で観念してやした巳吉が、この隙に逃げちまったそうで、猪吉達が恐る恐るそれを覗きみたところ、巳吉はあの覆面野郎に殺されちまって、永岡の旦那は腕から血を流して、逃げて行くところだったそうなんでやす。話しを聞いてあっしらが確かめてみやすと、確かに巳吉の野郎は二人が言ってた様に、骸になって転がってやしたんで、永岡の旦那が逃げたと言う方向を、翔太と二人で捜し回ったんでやすが、どうにもこうにも見つかりやせんで、入れ違ぇで帰ってるかも知れねぇとも思いやして、急ぎ戻って来たんでやす」
翔太も後ろで小刻みに頷いている。
「ど、どうしやしょうかぇ?」
松次が縋る様に智蔵を見る。
「どうって言ってもなぁ。お前らはどの辺を捜してたんでぇ?」
「猪吉達が、旦那は本所の方向へ逃げて行ったってぇ、言うもんでやしたから、本所界隈を捜し回ってから、新大橋を渡ってここへと戻って参りやした」
智蔵に問われて、松次は経路を答えた。
「本所界隈では、旦那らしい姿を見たって者もいやしたんでやすが、新大橋を渡ってからは、旦那らしい姿を見た者は誰もおりやせんでぇ」
松次は町の者に聞き回った事を伝える。
「ってぇ事ぁ、新大橋より先まで遠回りして、永代橋辺りを渡ってんのかも知れねぇなぁ」
智蔵は少し考えてから新田に顔を向けた。
「旦那、やはりもう少し、永岡の旦那を捜しに行って来やすんで、旦那はここで待機していてくれやせんかぇ?」
智蔵は再度永岡を捜す事を願う。
「あぁ、分かった。手分けして永岡を見つけ出して来てくれぃ。何処かの町医者に、転がり込んでる可能性もあるんでな。そこんところも当たってくれや」
新田が智蔵に頼んだ時に、下から人がゆっくりと登って来る音が聞こえた。
「永岡の旦那ぁ」
いち早く伸哉が、階段の所まですっ飛んで行くと、階下を覗き込んだ伸哉は、後ずさる様にして戻って来た。
「だ、誰でぇ」
のっそりと階段から顔を出したのは、源次郎だったのだ。
源次郎を知らない伸哉は不審な男と思い、誰何したのだ。
「まぁ待たれよ。ワシは怪しい者ではござらんでな」
ピンとした緊張感が走る中、源次郎は長閑な口調で、両手を上げて頬を緩めた。
「ワシは永岡殿とはちょっとした仲でな、刀に誓って怪しい者ではないのじゃ」
「あっ、もしや河村源次郎様で?」
智蔵が永岡から話しを聞いていた様で、名前を思い出して声をかけた。
「おっ、話しが早そうで助かったぞ。そうじゃ、ワシは河村源次郎と申す。身分は訳有って大っぴらに言えぬが、公儀の者とだけ言っておくかのぅ」
源次郎が公儀の者と言うと、皆唖然として敵意を引っ込めた様で、それを見て取った源次郎は、やっと来意を話し出した。
「先程、みそのと言う女子の家を通りかかったのじゃがな。中で騒ぎが有った様じゃったので覗いてみると、永岡殿が傷を負って転がり込んだところじゃったのよ。ワシは医者やらの手配を手伝ってから、この事をお主達に報じて欲しいと、女子に請われてここまでやって来たと言う訳じゃ。永岡殿は医者に診てもらって、今は女子の家で休んで居る」
源次郎は来る途中に考えた経緯を語ると、肩の荷が下りた様に小さく息を吐いた。
「だ、旦那は大丈夫なんでやしょうかぇ?」
話しを聞いていた智蔵が源次郎に問い質す。
「医者の話しじゃと、血が流れ過ぎているのと、長いこと傷を負って歩いて来ているので、消毒はしたが化膿する怖れがあるのが、気がかりの様じゃったが、ワシが出て来た時は落ち着いて眠っておった。なんとか持ち堪えてくれると思うのじゃがなぁ」
源次郎が希望を込めて智蔵に応える。
「とにかく、そう言う事じゃ。永岡殿はみそのと言う女子の家に居るでな。ワシは伝えたぞ」
源次郎はそう言って、ボロが出ない内にそそくさと帰って行った。
「と、とにかく旦那の居所が判って、良かったでやすねぇ」
源次郎の背中を見送った松次が、ホッとした様にぼそりと言った。
「親分、これから旦那の顔を見に行きやしょうぜ?」
伸哉が智蔵に意気込んで願う。
「そうだなぁ。大勢で押し掛けちまったらみそのさんも迷惑でぇ。先ずはあっしと新田の旦那で、様子を見に行きやしょうかぇ?」
智蔵は新田を返り見る。
「あぁ、でもオイラは火が収まったら調べに当たるんで、ここで待機してらぁ。迷惑がかからねぇ程度の人数で行って来いや」
新田は一目永岡の無事を確かめたいであろう、手下達を行かせる様に智蔵に促した。
「お気遣いありがとうごぜぇやす、旦那」
智蔵は新田に礼を言うと、先ずは伸哉と自分が永岡の元へ向かう事にして、新田達に西海屋の調べを託した。
「伸哉、行くぜ」
智蔵は伸哉に声をかけると、みそのの仕舞屋へと向かうのであった。




