第六十七話 暗示
「もしもし、今大丈夫? 電話しても出なかったから、メールしといたんだけど見た? 明子叔母さんなんだけどさ、亡くなる少し前に、美穂子叔母さんに言ってたらしいんだけど、何故かお兄さんと希美が、一緒に遊んでいる夢を見たとかで、最近希美に会いたがってたみたいなんだ。だから、明後日に葬儀が決まったって言うから、最後に希美も顔見せてあげてよ。俺も休みとって行くから、希美も仕事の都合つけてくれないかな? 俺はちょっと仕事が忙しいから、もしかしたら、直接行く事になるかも知れないけどね。また連絡するよ、じゃあな」
夫の言葉を思い返しながら、希美の休憩時間は終わろうとしていた。
「あっ、もうこんな時間じゃないっ。いけないいけないっ」
希美は携帯の着信メールの振動で我に返り、同時に意外と時間を過ごしてしまった事に驚き、慌てて立ち上がって仕事に戻るのだった。
*
「無茶ですよ旦那ぁ。あっしも残りやすよぅ」
新田に事の事情を話した後、永岡は例の男が現れる事を考え、猪吉と長助、巳吉を護る為に自分一人が残り、新田は皆を率いて、西海屋へ捕縛に向かう事を進言していたのだ。
智蔵は必死で永岡を宥めている。
「お前が居ても足手まといになるだけさなぁ。いざとなりゃぁ逃げるから、心配するねぇ。それに家ん中から出なきゃ、野郎も襲って来ねぇかも知れねぇしな。とにかく早ぇとこ西海屋へ向かってくんねぇ」
永岡は早く捕縛に向かう様に促す。
「新田の旦那も、何とか言ってやってくだせぇよぅ」
智蔵は今度は新田に助けを求めて泣きついた。
「智蔵、ここは永岡の言う通りにしようじゃねぇかぇ。とっとと西海屋を捕らえちまって、すぐ様ここへ引き返して来りゃ良いんだしな。しかし永岡、最悪巳吉なんぞ捨て置いて逃げるんだぜぇ」
新田は永岡の話しを聞いた時から、止む無く決意していた様で、逆に智蔵は新田に諭す様に言われてしまった。
「そう言うこった、智蔵。西海屋の方はしっかり頼んだぜぇ」
永岡は智蔵の肩を叩いて励ました。
すぐ横には、新田に攻められて未だ唸っている巳吉が、後手に縄を打たれて転がっている。
足の爪の部分が血だらけになっているので、容易く動けそうにも無いのが一目で判った。
「おぅ、行くぜぇ」
新田が三木蔵や智蔵に声をかけて、出発を促す。
「へ、へぃ」
智蔵は永岡に軽く肩を押され、渋々西海屋へと向かう事となった。
*
「殿、町方は押上村にて巳吉を捕らえましてございます。如何取り計いましょう? それと、こちらへ報告に戻る途中に、例の尾張の男が、町方につけられてるのを見かけました故、そちらは始末しておきましてございます」
蘭丸は押上村へ物見に行き、丁度新田達が巳吉を捕らえんが為に、家の中へと押し込んだところを見ていた。そして暫く様子を伺った後、報告の為に一旦戻って来たところだった。
無論これは、こうなる事と見越しての事だが、信長にとっては、余りよろしく無い状況に転んだのだった。
「んむぅ。やはりそうなってしもうたか…」
「申し訳ござりませぬ」
蘭丸は、部屋の中での闘争は刀を振り回す上で、多勢を相手にするには不利になる為、一旦退いて、信長の采配を仰ぐ事にしたのだが、その判断をやや悔いていた。
「お主は詫びる必要など無いわい。それに焦らずとも良いと言うたでないか」
信長は煙草盆を引き寄せ、煙管に火種を移して一服する。
敢えてしているのか、ゆったりとした所作で紫煙を燻らせる。
「蘭丸、先ずはやるだけの事はやってからではあるが、此度は例の計画に変更する事も、考えておかねばのぅ」
煙管を煙草盆に打ち付けた信長が、虚空を睨む様に見据えながら言う。
「蘭丸、くれぐれも焦らずにな」
もう一度念を押す様に言うと、信長は意味深に笑って、次の煙草を煙管に詰めるのであった。
*
希美は先ほど夫から聞いた、新さんと自分が一緒に遊んでいたと言う、叔母さんが見た夢の事を考えていた。
「何かの暗示なのかしら」
希美はぽつりと独り言ちる。
最近めっきり一緒に過ごす事の無くなった夫の事や、堪らずに逢いたくなってしまう永岡の事やらを、改めて考えてしまう。
『これから私、どうなっちゃうんだろう』
今度は心の内で独り言ちる。
どうすれば良いのか解らないのが、今の希美の正直なところだった。
冷静に理性的に考えれば、自ずと答えは見えている。
しかし、それを超えたところに、希美の心は所在無さそうに居座っている。
「はぁ」
今日何度目かの溜息を吐いた時、通路からお店を眺めている初老の婦人が目に入り、希美は努めて口角を上げると、接客モードへと戻るのだった。
*
「旦那ぁ、あっしはどうなっちまうんでぇ?」
巳吉が永岡に恐る恐る聞いて来る。
「お前は偽薬と知りながら、悪事に加担してたんだから死罪は免れねぇわな。だが、神妙に知ってる事を洗いざらい喋って、本気で改心するとお奉行に請えば、お奉行だってお前に、慈悲をかけてくれるかも知れねぇなぁ」
猪吉や長助と違い、巳吉は悪事と知った上で犯行に及んでいる為、何処までお奉行が斟酌してくれるのかは正直解らない。ましてやその偽薬で、死人まで出ている事を考えれば尚更だ。
「悪事を働く前に、どうなるかは考えるんだったな」
永岡は遠くを見ながら言うと、あの男の気配を探す様に気を集中させた。
*
文吉が、竹蔵を見張る弥吉と新太の元へ、竹蔵の捕縛を伝えに走り、今は新田と智蔵、三木蔵、伸哉、松次、留吉の六人で西海屋の面々を捕らえに向かっている。
茶問屋の二階で見張っている広太と翔太、この二人を入れれば八人になる。
大店での捕物を考えれば、同心一人を含め八人では、少々頼りない手勢なのだが、時間をおけば逃げられる恐れがある為、致し方ない。
「松次っ」
智蔵が松次に声をかけながら目配せすると、松次は大きく頷き、広太達へ報せに走り出した。
もう半町も行くと、西海屋が見えて来る所まで来ていたのだ。
「先ずはオイラが、御用ってぇ事で踏み込むんで、打ち合わせ通りに周りを囲んで、逃げる者が居たらとっ捕まえてくんなぁ」
先ず新田と三木蔵で店に踏み込み、智蔵とその手下で、西海屋の周囲を固める事になっていた。
「へい、合点でぇ」
皆が応えて、意気を揚げた。
*
「来やがったかぇ…」
永岡がぼそりと呟き、思わず生唾を飲み込む。
ピリピリと刺す様な剣気が、ひしひしと永岡を覆い被す様に漂って来たからだ。
永岡は肩に当てていた十手を腰に戻し、すっくと立ち上がって太刀の鯉口を切る。
やはり多勢で迎え入れるので有れば別だが、一対一ならば、屋内での立ち合いにも、力量の差が出てしまう事を考え、永岡は屋外へと打って出る決心をした。
「むっ」
永岡が家から一歩外へ出ると、思わず声を発していた。
ピリピリと刺す様な剣気が熱を帯び、膨れ上がる様な凄まじさに変わったからだ。
永岡は太刀を抜き払うと、ジリジリとした圧力の中、丹田に力を込めて摺り足で少しずつ前に出る。
永岡の剣気も、自分を覆っている剣気を跳ね返すかの様に膨れ上がる。
剣気がぶつかり合い、歪みが生じた空間の先に、まるで戦国の世から時空を超えて現れた様な、豪胆な風格を携えた漢が立っていた。
「ほぅ」
剣気の正体である蘭丸が、自分の気を押し返して来た永岡に頬を緩めた。
その時、後ろ手に縄を打たれた巳吉が、片足を引きずりながら家から出て来た。
巳吉はこの隙に逃亡を企てたらしく、永岡と蘭丸の居る方とは逆の方角へと、必死に逃げ出した。
「ん? やはり此奴一人であったか。ちっ」
蘭丸は、他の者は凡そ西海屋へにでも、乗り込んでいるのだろうと推測し、急ぎ戻らねばと走り出した。
しかし、巳吉の始末だけはつけておこうと思ったのか、走り出した先は巳吉の方角だ。
「まずいっ」
永岡もそれに気付いて、巳吉の方へと走り出す。
「むんっ」
永岡の方が巳吉から近かったおかげで、巳吉と蘭丸の間に入ったところで、永岡は蘭丸にすくい上げる様に刀を一閃させる。
蘭丸は走って来た勢いのまま、永岡の初太刀を、刀を振るわずに身体を捻って躱すと、すれ違い様に刀を抜いて、永岡の二の太刀が振るわれる前に、抜き打ちで袈裟掛けに斬りおろした。
ブゥンっと大気を切り裂く音とともに、永岡の襟端が裂ける。
永岡がすくい上げる様に刀を振るった際の、がら空きになった胴への一撃だったが、蘭丸が走りながら刀を振るったおかげで、紙一重のところで、薄皮一枚を斬るに留まったのだった。
永岡の肌に薄っすらと血の筋が浮かぶ。
「ふぅ〜」
永岡は背中に冷たい物を感じながらも、ゆっくりと息を吐きながら呼吸を整え、刀を正眼に構え直す。
そして、ピタリと刀の先端を蘭丸の右目に据えて、手の内を絞った。
「ふふ」
蘭丸は小さく笑ったかと思うと、今度は蘭丸の方から仕掛けて来た。
全く起こりも感じさせない蘭丸の仕掛けに、永岡は一瞬反応が遅れる。
「むんっ」
また袈裟掛けかと思う間もなく、刀が何かにぶつかって弾ける様に、急に角度を変えて永岡の首に襲いかかる。
ガキィンッ
永岡は瞬時に、新之助に教えられた受け身を取り、かろうじて刀を合わせて免れると、大きく飛び退って間合いを取った。
蘭丸は永岡が躱した事に驚く様に、少し目を丸くしたが、目端で巳吉が逃げているのを捉えると、逃がすまいと永岡に打ってかかる。
蘭丸は突きと見せかけて、袈裟から胴へと刀を振るって牽制すると、胴へと刀を振るった勢いのまま、巳吉を目指して走った。
「しまったっ!」
永岡は蘭丸とすれ違った事で、巳吉との間に入られた事に気が付き、慌てて蘭丸を追う。
「むん」
永岡は追いながら小太刀を引き抜き、蘭丸の背中へと投げ打つ。
キンッ
背中に吸い込まれたかと思った小太刀が、軽い金属音と共に、振り向き様に弾き飛ばされ、永岡は一瞬目を瞠る。
「うっ」
瞬間、今度は蘭丸が永岡に刀を一閃させていて、永岡の右の二の腕から血が吹き出した。
「ぐぅっ」
永岡が唸り声をあげた時には、蘭丸は既に巳吉に肉薄していて、
ブゥォン
蘭丸が巳吉に追いつきざま刀を一閃させると、事も無げに巳吉の頭部が傾げた。
永岡は右手をだらりと下ろしたまま、それを見届けると、もう蘭丸から逃れる事しか無くなり、太刀を左手に持ち替えながら身を翻して走り出した。
「ふっ」
蘭丸は血振りをくれ、永岡が逃げて行くのを見ながら納刀すると、永岡は捨て置き、西海屋に向けて走り出すのだった。




