第六十五話 縁
「あっ、もしもし、良太郎。昨日ごめんね。私寝ちゃってて携帯に気がつかなかったの、本当ごめんね。それとメールありがとね。じゃぁ、お仕事頑張ってねぇ」
希美は朝起きると、携帯の着信履歴に夫の名前があり、その後にメールまで届いていたので、慌てて電話をかけたのだが、夫の会社は朝も早く既に仕事中の様で、留守電に謝罪とお礼を入れていたところだった。
「本当悪い事したなぁ」
希美はぼそりと呟いて、夫からのメールをチェックする。
「えっ、嘘っ。やだっ」
希美は朝から大声を上げてしまう。
「う、嘘でしょ。何これぇ」
メールを読み進めた希美は、もう一度ぽつりと独り言ち、暫く呆然としてしまうのであった。
*
「おっ、来やがったぜぇ」
永岡は豆粒の様に小さく見えて来た、猪吉と長助らしい姿を目にして、智蔵に呟いた。
永岡と智蔵は、押上村の賊の一軒家から程近い佐吉の家に来て、時折家の様子を伺っていたのだが、先程からそろそろ来る刻限だろうと、伸哉と松次が尾行しているであろう二人の到着を見計らって、様子を見ていたのだ。
二人は背に荷物を担いで近付いて来る。
「予定通りに事が運んでくれりゃぁ、いいんだがな」
永岡は二人に目を向けながら、智蔵にぼそりと言う。
「へい。後は、新田の旦那が張り付いている巳吉が来りゃぁ、粗方段取り通りになりそうでやすがねぇ」
「あの化け物野郎が、いつ出て来るかわかんねぇし、気は抜けねぇがなぁ」
永岡は一つ気になっていた事を口にして、智蔵を見る。
「確かにあの野郎が出て来やがると、捕物も一筋縄では行きやせんねぇ。しかしあの野郎は、一体何者なんでやしょうねぇ?」
智蔵も何度か目にした、覆面男の姿を思い出して少し身震いをする。
「あぁ、あんだけの遣い手なんだから、噂になっても良いもんだがな。噂はからっきし聞かねぇんだよなぁ」
永岡も自分が通った道場のつてを辿って、江戸の剣術道場に、それらしい人物の問い合わせをした事があったが、これと言った情報は集まらなかったのだ。
「まぁ、西海屋絡みの剣客だろうから、西国や京、大阪辺りの剣術道場のもんで、江戸の剣術道場にゃ、知る奴が居ねぇのかも知れねぇがな」
永岡は、そちらの方面に詳しい道場主にも、問い合わせた事が有ったが、そちらも情報は全く得られなかった。しかしこちらは、情報自体少なかった為、可能性としては未だあるのではと考えている。
「でも自分で言うのもなんだが、オイラも新田さんも、この江戸で五本の指に入る剣客と立ち合ったとしても、そこそこ良い勝負が出来る腕前は持ってるんだがな。あの野郎は、そんなオイラ達でも格が違うってぇか、別モンなんでな。あんだけの手練れなりゃ、世に名前が聞こえてても、不思議はねぇんだけどなぁ」
永岡はあの男と打ち合った時の手の痺れが、一瞬蘇った様な気がして、思わず自分の手を確かめる様にさする。
「とにかく、彼奴にぁ、死ぬ気でかからねぇ事にゃ話しにならねぇさな。お前らは、遣り合おうなんて思っちゃいけねぇぜ?」
永岡は、猪吉と長助が件の家へと吸い込まれて行くのを、目端で確認しながら智蔵に念を押した。
「へい、重々承知してまさぁ。でも旦那が危なけりゃ話しは別ですぜぇ」
智蔵が鋭い目で応えた時、伸哉と松次が顔を出した。
「おぅ、ご苦労だったなぁ」
「いや、尾行って訳じゃねぇんで、楽なもんでやしたょ。北山の旦那は今朝出て来る頃にゃ、随分と顔色も良くなっていやしたんで、道庵先生とも話しやして、途中に有った駕籠屋で、昼九つまでに迎えに上がる様に手配りしておきやした」
「そりゃぁ、良く気を回してくれたなぁ。ありがとうよ。お足の方は大丈夫だったのかぇ?」
永岡は気になっていた北忠の手配りを、道庵と伸哉がしてくれた事に礼を言うと、金の心配をした。
「へい。親分から預かっていやした小粒を握らせやしたのと、後は御用の筋って事で、後日奉行所に来る様に言っておきやした」
伸哉が抜かりなく手配りした様子を聞いて、智蔵は頬を緩めて頷いている。
「後は巳吉や飯田が現れるのを待つだけでぇ。お前らはそれまで佐吉の家で少し休んでろぃ」
「いや、大丈夫でさぁ旦那ぁ」
「巳吉が現れるまで、交代で見張ってりゃ良いだけさぁね。お前らは昨日から歩き通しでぇ、今は休んで、捕り物の時に働いてくんなぁ」
永岡が有無を言わさぬ顔で言うと、智蔵も伸哉達に頷いて、永岡の言う通りにする様に促した。
智蔵が二人の背中を押す様にして、佐吉の家へと連れてくと、二人はやはり疲れていたのであろう、智蔵の勧めるままに横になると、直ぐに寝息を立てて眠りについてしまった。
「旦那ぁ、ありがとうごぜぇやす。彼奴ら相当疲れてたのか、直ぐに寝ちまいやしたよぅ。ふふ」
智蔵が永岡の元に帰って来て、二人の様子を語ると、可笑しそうに笑った。
「まぁ、奉行所から捕り方は出せねぇんで、彼奴らにゃ、働いてもらわなきゃならねぇからなぁ」
今、奉行所では偽薬の取り締まりで、他の同心や与力なども皆、奉行所を出払っているのが現状で、江戸では毎日の様に闇の薬問屋や、それに関わった博徒など、騙されて処方していた医師までもが、次々と捕らえられる捕り物劇が繰り広げられていた。
「小者や被害者を捕まえて、どうすんだってぇんだけどなぁ」
永岡は事件の末端の者達や、ましてや偽薬と知らずに買わされていた者達を、手柄を挙げるのに躍起になり捕らえている、奉行所の一部の人間に嫌気がさしている。
しかし、そのお陰で多少なりと、江戸市中に偽薬が出回り難くなっているのも事実なので、余り強くも言えず、そんな面々を横目に、新田と共に立ち回って来ていたのだ。
永岡と新田は、奉行所の中で未だ手柄を挙げていない、希な二人となってしまっていて、尚更に、捕り方の人員を要請し辛くさせていた。
「まぁ旦那、あっしらだけでも事が足りまさぁ。大手柄を挙げて、大手を振って奉行所に帰りやしょうよ」
智蔵も奉行所内で他の岡っ引きや小者達に、手柄が無いのを揶揄されていて、永岡の肩身の狭さも凡そ伺い知れたので、思わず声に力がこもっている。
「ふふ、そうだな。よろしく頼まぁ」
永岡は智蔵も同じ様な状況なのだと、安易に想像が出来て、ほろ苦く笑いながら応えた。
*
希美はボーッとしなら、店のラックの商品を整えている。
先程から、頭の中は夫からのメールの事を考えていて、希美は同じハンガーを、カチャカチャ動かしているだけになっている。
「店長、もしかして不倫がばれたんですか?」
同い年のスタッフの雅美が、心配そうに小声で希美に声をかけて来た。
「もぅ、雅美ちゃんったら、そんな訳無いでしょうよ〜」
希美はハッと我に返って、雅美を睨みつける。
「ふふふ、余りにも深刻な顔して、仕事も手につかないみたいでしたから、てっきり」
雅美はニヤニヤしながら可笑しそうに希美の顔を覗いて来る。
「もぅ〜」
希美は頬を膨らませた後、ニコリと笑う。
「残念でしたぁ。不倫なんてばれてません〜。ふふ」
「あっ、ばれて無いって事は、やっぱり〜」
「もう雅美ちゃんったらっ。ふふ」
希美は殊更明るく言って、少し真面目な顔で語り出した。
「実は今日ね、夫の叔母さんが、亡くなってたって知らせが有ったのよ。昨日、夫のお父さんのご兄弟の事で聞きたい事が有って、丁度夫にメールで確認してたのよね。それを夫が確かめようとお義父さんに連絡したら、その少し前に、もう一人のお姉さんから叔母さんが亡くなってたって、連絡を受けたばかりだったみたいなのよ。夫はその叔母さんに、凄く可愛がられていたので、何か呼ばれる物が有ったのかと思ったみたいなのよねぇ」
希美は少し遠い目をして話す。
「そもそもお義父さんは、歳の離れた兄弟の末っ子なんだけどね。本当は叔母さん達の上に、戦争中に行方不明になってしまったお兄さんがいたらしいのよ。そのお兄さんとお姉さん達が取り合う様に、お義父さんを可愛がってたみたいでね。そんなお義父さんは、自分の子供に、大好きだったお兄さんの名前をそのまま付けたそうなの。そんなんで、お兄さんと同じ名前の夫は、尚更叔母さん達に凄く可愛がられてたの。私も結婚してからその叔母さんには良くしてもらって、大好きだったから、まさかその叔母さんが亡くなってたなんてって、驚いていたのと、夫の名前の由来を聞いて、なんだか考え事をしちゃってたのよねぇ」
希美は夫からのメールで知った事を、つらつらと雅美に話していた。
「そうだったんですねぇ。良い親戚に恵まれて店長は幸せですねぇ?」
希美の話しを聞いていた雅美は、ニコリと笑ったが、希美はそれを聞いてキョトンとしている。
「だってあの深刻な顔は、誰かが亡くなっていたんなら、もっと身近な人が亡くなったみたいな様子でしたよぅ。それだけ近い存在だったって事ですよねぇ?」
確かに叔母さんが亡くなったのも、凄く哀しい事だったが、夫の叔父さんが、新さんこと徳川吉宗だったと言う事の衝撃に、希美なりに、何か縁やら定めじみた事を考えてしまっていたのだが、雅美にはそんな事までは言えず、あやふやに相槌を打って応える。
「でも仕事中だもんね。ゴメンね、ちゃんと仕事しまっする」
希美は湿っぽくなりがちな空気を察して、戯けてマッスルポーズで言うと、お昼を迎え、余りお客の姿も見えないフロアーを見渡してニコリと笑う。
「雅美ちゃんがシフトに入ってると、なんでお客さんが少ないのかしらねぇ〜。ふふ、男の人を惹きつける技より、お客様を引き寄せる技を磨いて欲しいんだけどなぁ〜」
希美が雅美の顔を覗き込む様にして笑う。
「先ずは、男の人の方をマスターしてからと言う事で」
雅美はニヤリと希美に返すのだった。
*
永岡がそろそろ佐吉のところで、腹ごしらえでもしてくるかと思っていた時に、新田の姿が目に入って来た。
「って事ぁ、そろそろ巳吉の野郎が現れるってぇ事だな」
永岡が独り言ちると、智蔵も永岡の顔を見て大きく頷いた。
「おぅ、どうでぇ、変わりは無ぇかぇ?」
新田が永岡達が潜んでいる雑木林の中へ入って来て、開口一番、件の家の様子を永岡に聞いて寄こした。
「先ずは予定通りです。猪吉と長助は、今頃中で作業してるんじゃないですかねぇ。とにかく新田さんが来たってぇ事は、巳吉の野郎もそのうち来るんでしょうから、ここまでは順調ってぇ訳でさぁね。巳吉があの一軒家から出て来たら、とっ捕まえましょう」
永岡がニヤリと応えた。
「思ったんだが、どうせなら巳吉があの家に入った所で、オイラ達が押し込んでお縄にしちまって、そのまま中で巳吉を縛り上げといて、飯田を待つってぇのはどうだぇ?」
「そいつぁ良いや。佐吉も巳吉を預かるのは御免だって、中々聞き入れてくれなかったくれぇだから、その方が佐吉も喜ばぁ」
永岡は今朝から、佐吉に捕らえた巳吉を暫く家に置かせて欲しいと願っていたが、佐吉は縄を打って有っても、やはりそんな男を家に入れたく無かった様で、中々首を縦に振ってくれなかったのだ。
「もうじき巳吉もやって来らぁ、そんじゃオイラの案で行くとしようかぇ?」
新田がニヤリとやって袖を捲った。
「じゃぁ、あっしは、彼奴ら起こして来やす」
智蔵が伸哉達を呼びに、佐吉の家へと向かった。
「なら佐吉に、握り飯をこさえといてもらってくんねぇ」
「へい、承知でさぁ」
永岡が飯の支度を頼むと、智蔵はそのつもりとばかりにすかさず応えて、二人を呼びに行くのであった。




