第六十四話 疲れ
「ようけわがっただでよぉ、北山の旦那はもう休んでくれろぅ」
「んだんだ、オラ達のせいでお加減さ悪ぐなっちゃだまんねぇだで、ささ」
猪吉と長助は、北忠が脂汗をかいて青い顔になっているので、北忠の身体を心配して休む様に懇願している。
あれから一刻半ばかりかけて、六郷村にやって来た北忠であったが、戸板に寝かされて来たとは言え、流石に隠し様も無いくらい疲れていた北忠は、それでも気力を尽くし、二人の説得に当たっていたのだ。
最初こそ大勢で押し寄せて来た北忠達に、警戒こそしていたが、北忠が本名と身分を明かし、旅での偽りを詫びた上で、今回の事件のあらましを話し、二人には悪い様にはしないから協力して欲しいと、懇々と言い聞かせていたのだ。
「旗本屋敷は本当の話しだからねぇ。何か有ったら屋敷でも、八丁堀の組屋敷でも、どちらでも良いから尋ねて来るんだよぅ」
北忠は実家の畠山家へでも、八丁堀の役宅へでも、気軽に尋ねて来る様に付け加えると、ふっと、力なく倒れてしまった。
「北山様、暫くこちらで休ませてもらいましょうね」
倒れかかった北忠を支えた道庵が、気を失った北忠に優しく声をかけると、永岡を返り見て頷いた。
「じゃぁ、ここで忠吾を休ませてくんねぇ」
永岡は部屋の隅に戸板に乗せて来た布団を敷かせると、智蔵と一緒に北忠を布団に寝かしつけた。
「今日のところは、駕籠舁達にゃ帰ってもらって、また明日にでも迎えに来てもらうとするかぇ」
永岡は智蔵にそう言うと、智蔵は頷いて、外で待っている駕籠舁達へ伝えに立った。
「猪吉、長助、よろしく頼むぜぇ」
心配そうに北忠を見ている二人の背中に、永岡は声をかける。
「へ、へい」
涙を溜めた二人が振り返って応えると、永岡は大きく頷いて頬を緩めた。
*
「あっ、新田の旦那もいらしてたんでやすね。おつかれさんでごぜぇやす」
松次が茶問屋の二階に駆け込んで来ると、新田が見張りをしている事に驚き、松次は肩で息をしながらも頭を下げた。
「お前こそ、ご苦労だったな。で、先に知らせに来たのかぇ?」
「へい。北山の旦那のおかげで、すんなりと話がつきやして、二人とも協力してくれる事になりやした」
そこへ翔太が下から水を汲んで来て、松次に手渡した。
「ありがてぇ」
松次は翔太に礼を言うと、ゴクゴクと喉を鳴らして美味そうに水を飲み干した。
「猪吉と長助の話しでは、明日の昼八つくれぇには、最初のブツが仕上がるみてぇでやして、それを見計らった頃に、巳吉が先ず顔を出すのが、ここんところの通例になってるみてぇでさぁ。なんで、飯田の方もその前後に呼び寄せる様になるって、永岡の旦那と親分が話してやした。お二人はじきに戻って来やすんで、詳しい段取りは、戻ってからお話し下さるとの事でさぁ」
「そうかえ。ご苦労だったなぁ。ならお前もそこで、少し休んどけや」
新田は、広太と留吉が、部屋の隅で仮眠している所を顎で指して言った。
「しかし…」
松次が困った様に言い淀んでいると、下から伸哉が階段を上って来た。
「おぅ松次ぃ。俺も新田の旦那に言われて、飯を食って来たところでぇ。お前も飯か寝るか、新田の旦那の仰る様にして明日に備えろや」
伸哉が松次に声をかけて、新田に頭を下げた。
「ところで北忠は大丈夫だったかぇ?」
「へい。やはり相当無理していた様で、話し終えやしたら、気を失う様に寝ちまいやしたんでぇ。道庵先生の話しじゃぁ、疲れが出ただけなんで、今日はこのまま寝かせて、ゆっくり休ませたら大丈夫って言っておられやしたが」
松次は眉を寄せて新田に応える。
「そうかぇ。北忠に感謝しなくちゃなぁ。ま、それに応える為にも、明日の為に今のうち身体を休めておくんだな。解ったかぇ?」
「へ、へい。ありがとうごぜぇやす」
松次も今度は素直に受け入れると、そそくさと留吉達の近くへ行って、ゴロリと横になった。
「ふふ、相当疲れていやしたんですねぇ?」
横になったかと思ったら、直ぐに寝息を立て始めた松次を見て、伸哉は笑いながら新田に言う。
「あぁ。ここまで長ぇこと気を張ってたんだろうからなぁ。お前も、せめて永岡が戻るまで一緒に横になっとけな」
「新田の旦那こそ、後はあっしに任せて休んでくだせぇよぅ」
「オイラはこう見えても剣術で鍛えられてんでぇ。見た目は爺さんみてぇかも知んねぇが、二、三日寝ずに稽古をしても、大丈夫な身体に出来てんでぇ。良いからお前も休んどけや」
新田は大きな目をぎょろりとさせて、伸哉にニヤリとやった。
「ふふ、兄ぃも余程疲れていたんでやしょうねぇ。松次兄ぃの事ぁ言えたもんじゃねぇでやすよ」
渋々横になった伸哉は、腹が膨れていた事も有るのか、松次にも増して直ぐに鼾をかきだしたのを、翔太が見て小さく笑った。
「あぁ、そんだけ皆んな疲れてるって訳さぁな」
「あっしは今日から加わったばかりでやすから、未だ未だ大丈夫でやすぜぇ」
翔太は新田に心配無用とばかりに、手をぐるぐる回しながら粋がった。
「だからお前は声がでけぇってぇの、一応見張りをやってるっつぅのを忘れるねぇ」
新田は張り切りすぎて、つい声が大きくなった翔太を窘めると、声も無く笑って、窓辺から変わらぬ西海屋の店先に目を落とす。
「す、すいやせん…」
翔太も新田に倣って、張り切って外の様子に目を配るのだった。
*
「新田さん、ありがとうございます」
永岡が智蔵と一緒に茶問屋の二階に戻って来ると、新田が一人で窓辺に腰を下ろしていたので、永岡は慌てて礼を言った。
「あぁ。お前こそご苦労だったな。こいつらはオイラが言って休ませてるんで、叱っちゃいけねぇぜ?」
先程まで張り切っていた翔太も、窓辺に寄り掛かったまま、涎を垂らして眠っている。
「明日に備えて休ませてやろうじゃねぇかぇ」
新田が翔太の涎を垂らした顔を見て、声も無く笑いながら言う。
「はい。そりゃありがてぇ限りでぇ」
永岡は、ちょっとやそっとじゃ起きそうもない皆の姿を見て、ここのところの皆の疲れの大きさを改めて感じ、新田に感謝した。
「松次からなんと無くは聞いたが、明日の人手は足りてるかぇ?」
「えぇ。念の為六郷村の二人にも人を付けるとなりますと、些か手薄になる所も有りますが、何とかいけると思います」
「オイラの方も人は居るんだから、手薄になりそうな所は引き受けるぜぇ。人割だけでもしておくかぇ?」
「ありがとうございます」
新田の申し出に永岡は改めて礼を言うと、皆が寝ている内に新田と智蔵の三人で、人の配置やら、明日の手配りを話し合う事となった。
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「んじゃぁ、悪りぃが頼んだぜぇ」
「へい、わかりやした。では行ってめぇりやす」
伸哉と松次が夜の内に六郷村へと出発する為、半刻ほど前に起こされていた。
二人は入念に段取りを聞かされ、いよいよ腰を上げたところだ。
他の皆は未だ夢の中にいる。
「オイラも三木蔵に繋ぎ付けて来っから、一緒に出るとするわな」
新田も明日の手配りの為に、自分の手下に話しを通すと言い、一緒に出掛ける事となった。
「お前らも少しは休んでおくんだぜぇ」
新田はニヤリと、疲れた顔をした二人に声をかけて、伸哉と松次の三人で、茶問屋を後にするのであった。
*
「焦るでないぞ、蘭丸」
西海屋の奉公人も皆寝静まった宗右衛門の寝室で、信長が煙草をふかしながらぼそりと言った。
夜具の中で蘭丸が畏まる。
「何も無理してまで進める事は無いのじゃ、時期尚早よ。我が兵力が成熟すれば、小細工など要らぬのだしのぅ」
「申し訳ござりませぬ」
「ん? 蘭丸は良くやってくれておるわぃ。武器の充実を考えれば、今のこの太平楽な世なれば、徳川など討ち取れるくらいにはなっておろう。のう? じゃが西国大名等、武力では徳川を凌ぐ者も多い。その大名共も圧倒せねばならんからのぅ」
信長の組織している海賊は、今や日本一の海軍と言っていい程に、戦力を充実させている。
だが、未だ未だ数の上で負けている事を考えれば、戦乱の世さながらに、自分の手勢へ次々と大小大名を降らせる必要が有る。
「本来なれば殿が存命と知れば、此方になびく大名も、数多く居るかと思われますれば…」
「蘭丸、そんな戯言を誰が信じようぞ。ワシの顔を知る者ももう居らんのじゃぞ。ふふ」
蘭丸があれから何度と無く言って来た、詮無い言葉が出てしまい、信長が同じく、何度と無く言った言葉を吐いて笑った。
「とにかく蘭丸、そう言う事じゃ。急くことは無いのじゃぞ」
信長は煙草盆に煙管を打ち付けて、もう一度念を押すのであった。
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「よぅし、皆頼んだぜぇ」
永岡が段取りを話し終え、車座になって聞いていた皆の顔を見回して膝を叩いた。
皆、久々に十分に寝たせいか、一様にすっきりした顔で、永岡に頷き返している。
もう既に、伸哉と松次は出掛けていて居ないが、新田付きの岡っ引きである三木蔵も、手下を従えて顔を出していた。
「新田さん、よろしくお願いします」
永岡は改めて新田に礼を言う様に頭を下げる。
「おうよ。上手ぇこと行ったら、そん時たんまり礼をしてもらうとすらぁな」
新田がニヤリとやって、永岡の肩を叩いて応えた。
留吉と三木蔵が黒猫一家の典男を連れて、飯田の居る尾張屋敷へ、三木蔵の手下の弥吉と新太が竹蔵を、同じく三木蔵の手下の文吉と新田が巳吉を、永岡と智蔵は押上村へ、それぞれ赴く事になった。
広太と翔太は茶問屋に残り、西海屋の見張りと、それぞれの繋ぎに走る役目を任された。この二人以外は、それぞれの配置に向け茶問屋を出て行く。
尾張屋敷のもう一人の藩士である坂上は、この際捨て置く事にしているが、今日は殆どの者をお縄にする段取りでもあり、皆その捕り物に向けて、心の内を昂らせるのであった。
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ブゥー、ブゥー、ブゥー
携帯のバイブ音が鳴っているのだが、まんじりと眠れぬ夜を過ごしていた希美は、いつの間にか大の字になって寝てしまっていて、その携帯のバイブ音に気がつかない。
ブゥー、ブゥー、ブゥー
希美には程よい子守唄にでも聞こえるのか、携帯は希を覚醒させる事なく、健気に鳴り続けた挙句、疲れたかの様に、希美に気づかれないまま静かになった。




