第二十話 猪牙舟の行方
「おぅ、みその。こんな所でどうしてぇ?」
「ひゃっ」
みそのはいきなり名前を呼ばれた形になり、小さな悲鳴をあげて身構える様に立ち止まった。
みそのは小走りになりながら、先程見た積荷と自分を見ていた水手の男の事を考えていたので、前から人が駆け寄って来ているのに、気がついていなかったようだ。
「だ、旦那じゃぁないですかぁ。驚かさないでくださいよぉ」
声をかけて来たのが永岡達だと気がついて、ほっとしたのか、脱力した様にみそのは言った。
「お、おぅ、悪りぃ悪りぃ。でもお前、そんな慌ててどうしたんでぇ?」
みそのはアルファベットの事をどう伝えていいのか、先程から考えあぐねていたので、自分を狙う様に見ていた猪木舟の男についてと、その舟には筵にかけられた、怪しげな荷物が積まれていた話しをし、その男と目が合ってしまった気がしたので、慌てて逃げて来たのだと永岡に伝えた。
「そうか、大事無ぇで良かったなぁ」
永岡は優しく言うと、ここまで案内をして来た小太郎と智蔵の方へ振り返った。
「どうやらお前の言ってた奴に違ぇねぇな。もし違ってたとしても、きっとそいつの仲間だろうよ」
やっと顔を見せ出した獲物の影に、上気する永岡はみそのに振り返って問い質す。
「そいつぁお前と反対方面に舟を漕ぎ出したんだな?」
みそのは頷く。
「旦那ぁ、こん先運河はどん突きですぜぇ?!」
智蔵が話しに割り込んで来て言うと、永岡も頷く。
「こん先ぁ、武家屋敷が多くなっていやすぜ。そのまま舟ごと屋敷に入『へえ》られたんじゃぁ、調べようも無ぇんで、あっしはこのまま追ってみやす」
そう言って智蔵は、小太郎を連れて走り出した。
「おぅ、オイラもすぐに追いかけっから、深追いはするんじゃねぇぜぇ」
永岡は二人の背中に投げかけると、みそのを見て、もう一度無事を確認した。
「あれ? 親分さん達はどちらに行かれたんですか?」
場違いな声と共に、北忠がやっと追いついて来たのだ。
「ちっ」
永岡は、ここ最近すっかり癖になってしまった舌打ちと共に、北忠を一瞥すると、思いついた様に切り出した。
「丁度良かった忠吾。こいつぁみそのって言って、オイラの馴染みでぇ。今こいつが例の賊に狙われてた節があって、逃げて来たってぇとこなんだがな。オイラは智蔵が賊を追ったのを追っかけっから、お前は、このみそのを、無事に家まで送り届けてくんな」
永岡は有無も言わさず、そう言いながら駆け出して行った。
「だ、旦那ぁ、私なら大丈夫ですから…」
と、駆け出した永岡の背中を見ていたみそのが、北忠を振り返って見ると、北忠は、ぽ〜っと赤い顔をして眠った様にみそのを見ていた。
「き、き、北山忠吾と申します。永岡さんのお言いつけなので、どうぞご遠慮せずに、お、お任せください」
北忠はそう言ってまた、眠った様にみそのを眺めるのだった。
*
「おぅ、智蔵、どうでぇ?」
二人に追いついた永岡は、元気無く歩く智蔵に声をかけた。
「へぃ、旦那。どん突きまで見に行って来やしたが、乗り捨てた猪木も見かけやせんし、怪しい男も見当たりやせんでした。まあ、猪木漕いでる奴が一人いやしたんで、声をかけてみたんでやすが、そいつぁ荷を積んでやせんで、代わりに人を乗せていやしたんで、そう怪しくも無ぇ感じでやしてね。一応そいつに他の猪木を見てねぇか、聞いたんでやすが、そいつも知らねぇって事でやして、見失っちまったんでさぁ」
一足遅く、例の猪牙舟の男を見失った様だった。
「いや智蔵、そんで充分でぇ。これでこの辺りの屋敷が怪しいってぇのが、知れた様なもんだ。これからここら辺りに的を絞って、炙り出そうじゃねぇか。なぁ」
永岡はそう言って智蔵を労った。
「智蔵、お前には他の場所に散ってる手下を集めて、この辺りを張る手配りをしてもらいてぇ。オイラは奉行所へ戻って、ここらの屋敷を武鑑で調べて、この辺りの屋敷ん中に、怪しい噂のお家が無ぇか、調べてみるとするぜ。まぁ、慌てるねぇ。明日からでも良いんでぇ。むしろ今はあまり嗅ぎ回らねぇ方がいいだろうよ」
「そうでやすね。あっしらが嗅ぎ回ってる事を知られちまったら、元も子もねぇや。慎重にやりやしょう」
智蔵も力が出て来たのが、永岡に答えると大きく頷いた。
*
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、少し歩くのが早いのではありませんかぁ〜。そ、それに、もうとっくに昼餉の刻限も回っていますし、某が馳走など…」
みそのがすたすたと歩いている後ろを、北忠が追いかけている形だ。
最初こそ、みそのは北忠の歩調に合わせていたのだが、のろのろと歩く北忠に合わせると逆に疲れるし、団子屋や飯屋なんかを見つけると、物欲しそうに立ち止まったりして、みそのに食べないかと目顔で訴えて来るので、流石のみそのも閉口していた。
北忠は、みそのを家まで無事に送り届ける役目を、永岡から言い渡された手前、自分から休憩や昼餉の事などは、流石に言い出し難かった様で、それを察したみそのは、「では少し急いで、早くこのお役目を終わらせてしまいましょう」と、北忠の歩みに合わせる事を止め、歩く速度を上げていたのだった。
しかし、既に北忠も空腹の限界が来た様で、今はもう、お構い無しにみそのを昼餉に誘っている。
『確かにずっと一緒に居るとウザいかも』
と、みそのは心の内で思ったが、北忠の憎めない眠った様な困り顔に負けて、つい昼餉を一緒に摂ることを考えてしまう。
*
「い、いやぁ。みそのさんがそう言うのでしたら、永岡さんも否応ありません」
結局、根負けしたみそのが折れてあげると、北忠は嬉しそうに言って、眠りから覚めた様に元気を取り戻して、飯屋を探しながら先に歩いて行った。
「やれやれ、永岡の旦那も確かに根を上げる訳ねぇ…」
今までのダラダラした歩きとは別人の様に、すたすたと歩いて行く北忠を見ながら、みそのはクスクスと笑った。
*
「そんでお前は、忠吾と飯食って帰って来たってぇのかぇ?」
夜になって、みそのの様子を見に立ち寄った永岡が、大きな声を出している。
「いいじゃないですか、旦那ぁ。だってあんな顔をされたんじゃあ、私も可哀想になってしまって、折れるしかなかったんですよう」
北忠にみそのを警護して、家まで送って行くのを頼んだ永岡だが、まさか仲良く一緒に昼餉などを食べているとは、夢にも思ってもみなかった様だ。
「でも北山さんって面白いですねぇ。お蕎麦にするのか、煮売飯屋さんにするか、お店を行ったり来たりしながら、散々迷ってましてねぇ? 結局煮染めを買って、お蕎麦屋さんに入ったのには驚きましたよう」
クスクス楽しそうに話すみそのを、永岡は仏頂面をして聞いている。
「北山さんたら、お蕎麦屋さんに入ってからも、注文を何にするかを、その煮染めを食べながら、ブツブツ言って考えていましてね。お店の方も、困った顔で私を見てくるものですから、私が北山さんの分まで決めてあげようとしたら、『それは某の仕事でございますから』なんて言って、聞かないんですよう」
その時の事を思い出して、またみそのはクスクスと笑う。
「結局、北山さんは天婦羅蕎麦を頼んだのですが、それを頼んだら、すぐにお店を出て行ってしまいましてね。私もどうしたのかと思って、心配していたのですがね。またすぐに戻って来た北山さんたら、その手に煮染めのお代わりを持ってたのですよう。もう私も呆れるやら、関心するやら、可笑しくなっちゃいまして、笑ってしまいましたよう」
その事を思い出して、楽しそうにみそのがコロコロ笑っている姿を、苦い顔をして永岡が見ている。
「あら旦那。お酒でもつけますぅ?」
そんな永岡の様子を見てとって、みそのが気を回して酒の用意にかかった。
「今日は旦那、なんか機嫌が悪いですねぇ?」
冷でいいと言われたので、先日の佃煮と一緒に、待たす事なく永岡に出してやった。
酒を受け取った永岡は、
「機嫌が悪りぃって事ぁ無ぇやな。なんでオイラが機嫌が悪くならなきゃならねぇんでぃ」
と、みそのへ返しながら酒を注ぎ、
「ん〜、やっぱ美味ぇなぁ。お前んとこの酒はぁ」
と、一気に酒を呷って、誤魔化す様に言い放った。
「まぁ、お前も忠吾も、飯は食わねぇとだからなぁ。いいんじゃねぇかぇ?」
「あれ? 旦那焼いてるんですかぁ?」
みそのが茶化す様に言って、コロコロ笑うのを、永岡は「ちっ」と舌打ちをして、苦い顔で酒を舐め、
「で、今日はなんであんなとこに居たんでぇ?」
と、話しを変える様に聞いて来た。
「あぁ、今日は甚右衛門さんの親類の搗き米屋さんで、善兵衛さんと言うお方のところへ、行っていたんですよう」
みそのは甚平がここに来てからの経緯を、永岡に話して聞かせた。
「そんな話しになっていやがったんだなぁ。相変ぇらずお前も面白ぇなぁ。そんな話しの後に拐かしに狙われたんじゃ、お前も堪ったもんじゃなかったなぁ」
少し機嫌が直ったか、美味そうに酒を飲みながら永岡は言う。
「そうですよぅ。でも旦那達が来ていてくれて、本当に良かったですよ。あっ、そう言えば、あの男は見つかったんですか?」
みそのは思い出して聞いてみた。
「あぁ、逃しちまったさぁ。でもこれからが面白ぇ事になって来やがるぜぇ」
酒を舐めながら永岡は、みそのを見てニヤリとやった。
「でも旦那、気をつけてくださいねぇ?」
みそのは、あのアルファベットが書かれた木箱の事を、どうやって伝えれば良いか、まだ考えが決まらない。
「抜け荷って言っても、何を運んでいるんでしょうねぇ? 私が見たのは木箱でして、そんなに大きな物でも無かった気がしますけど。あの木箱にはどんな物が入っていたんですかねぇ?」
みそのは、アルファベットの事は別にして、気になっていた事を聞いてみた。
「まぁ、抜け荷って一言で言っても様々さぁね。朝鮮人参なんてぇのは、本来薬として必要なんだがな。お上が禁じまってるから、長崎から入ってくる物しか手に入らねぇんで、そもそも数が足りねぇ。それを人助けの為に抜け荷の罪を承知で、密輸している輩も居りゃぁ、金儲けの為にしている輩も居る。まぁ、大抵は金儲けが目的でやっている輩が殆どだがなぁ。そんでもって大体そう言う輩は、金になる様なもんなりゃ、なんでも良いってなもんで。豪商やら金持ち旗本や、大名なんかの殿様の御用聞きみてぇになって、珍しい物ならなんでも手に入れて来るってぇ話しでな。西洋の国からも、椅子ってぇもんやら、浮世絵みてぇな絵からガラス細工なんか、それは色々よぅ。ピストウルってぇ短筒の鉄砲なんかも、装飾品とか何とか言って捌ぇてるみてぇだしな。要は、世の金持ちお代官様らの望むもんを集めて、売り捌ぇてるってとこだな」
そして永岡は佃煮を口に放り込んで、美味そうに酒を舐めながらみそのを見た。
「だから、荷の大きさなんざぁ、それこそ様々ってぇ事だな。阿片なんてぇ薬も、今じゃ抜け荷の中では、少なく無ぇってぇんで、お上も力を入れて探索してるくれぇだしな」
永岡は、阿片は少量なら麻酔薬として重宝するらしいが、量が過ぎると毒になるとの事で、廃人になるまで、人心を操ったりする事にも使われる、との説明をしてくれた。
「まぁ、なかなか尻尾は見せちゃくれねぇから、お上も手を焼いてるんだがなぁ」
そう言って永岡は猪口を呷ると、
「でも今回は尻尾を出したみてぇだぜぇ?」
ニヤリと笑って、みそのがその手掛かりを教えてくれた事に、嬉しそうに感謝した。
一通り話した様な塩梅なると、また二人に沈黙が流れた。そしてそれを嫌がる様に、永岡は勢いよく腰を上げると、
「すっかり馳走になったな。今日奉行所であれこれ掴んだ物があるんでぇ。んなもんだから、明日は早くから智蔵らと動かなきゃなんねぇんで、そろそろ行くとするぜぃ」
「はぃ、お気をつけてくださいましよ。旦那ぁ、事件が解決したら、今度は旦那が御飯をご馳走してくださいねぇ。ま、次も北山さんでもいいんですがねぇ」
みそのも名残惜しくもあったが、明るく永岡を送り出す言葉を言って、北忠をネタにからかいながらも褒美をねだる物言いをした。
「お、おぅ。これが解決したら、お前の手柄でもあらぁな。鰻でも何でも、好きなもん食いに連れてってやっから、何が食いてぇか考ぇて、精々楽しみにしてろぃ」
みそのがにっこり頷くと、それを見惚れる様に永岡が見てしまい、また俄かに沈黙が流れそうになる。
「ま、そう言うこった。お前も後はオイラ達に任せて、危ねぇ真似すんじゃねぇぜぇ」
永岡は沈黙を嫌う様に言うと、そそくさと帰って行った。
「永岡の旦那ったら…」
みそのは恨めしそうに呟くと、小さくなって行く永岡の背中を、暫く名残惜しそうに見つめるのだった。




