色彩のない妻
その日、夫のアランから突きつけられたのは、白い便箋と、署名済みの離縁状だった。
「エレナ。君との生活は、もう限界だ」
アラン・オルブライト伯爵は、窓辺に立ち、私の方を見ようともせずに言った。
夕日が彼の銀色の髪を赤く染めている。その横顔は、彫刻のように美しく、そして冷たい。
「息が詰まるんだ。君はいつも無表情で、口を開けば金の話、節約の話ばかり。……まるで、灰色の壁と暮らしているようだ」
私は、手元の刺繍枠を静かに置いた。灰色の壁。
なるほど、言い得て妙だと思った。
私、エレナ・クレイグは、大手商会の娘として生まれ、三年前、資金難に喘いでいたオルブライト伯爵家に嫁いだ。
いわゆる、金で爵位を買う形の政略結婚だ。
当時のオルブライト家は酷いありさまだった。屋敷は雨漏りし、使用人は給金を払われずに逃げ出し、アラン様はプライドだけ高い貧乏貴族として、社交界の笑い者になっていた。
私は父から託された持参金を切り崩し、屋敷を修繕し、借金を整理し、領地の経営を立て直した。
愛されることなど期待していなかった。これは契約であり、私は「妻」という名の「経営者」として雇われたのだと割り切っていたからだ。
「……そうですか。限界、ですか」
私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「ああ。僕には、心安らげる場所が必要なんだ。君も知っているだろう? リリアのことだ」
リリア・サマーズ男爵令嬢。
ふわふわとしたピンクブロンドの髪に、愛くるしい笑顔。アラン様の幼馴染であり、社交界の花と謳われる女性だ。
彼女は、私とは正反対だ。
金勘定などせず、詩や花を愛し、アラン様に「素敵」「すごい」と甘い言葉をささやく。
彼が安らぎを覚えるのも無理はないだろう。
「彼女は、僕の心を彩ってくれる。君のような、無機質な数字だけの女とは違う」
アラン様は、軽蔑を隠そうともせずに私を見た。
私はゆっくりと立ち上がり、離縁状を手に取った。
「わかりました。……アラン様がそう望まれるのなら、私は退きます」
「……あっさりしたものだな。少しは縋るとか、泣くとかしないのか?」
「泣いて何かが変わるのならそうしますが、計算上、それは時間の無駄です」
私が淡々と答えると、アラン様は「そういうところが嫌いなんだ!」と吐き捨てて、部屋を出て行った。
残された私は、ふう、と小さく息を吐いた。悲しみはなかった。
ただ、肩の荷が下りたような、奇妙な軽さだけがあった。
私はその夜のうちに荷物をまとめた。
私がこの屋敷に持ち込んだ私物は、驚くほど少なかった。
嫁いでくるときに持ってきた数着のドレスと、実家の父から譲り受けた万年筆。それだけだ。
この三年間、私は自分のために何かを買った記憶がない。
全ての金と時間は、オルブライト家の維持に消えていた。
最後に、私は執務室の机の上に、一冊の分厚い革表紙のノートを置いた。
それは、私が三年間つけ続けた『家計簿』であり、この屋敷の『取扱説明書』でもあった。
「……さようなら、アラン様。どうか、彩り豊かな人生を」
私は誰もいない玄関ホールで一礼し、静かに屋敷を後にした。
外は満月で、私の足元を白く照らしていた。
振り返ることはしなかった。
◇
エレナが出て行ってから数日。
アランは、これまでにない解放感を味わっていた。
朝、目覚めると隣にはリリアがいる。
彼女は甘い声で「おはよう、アラン」と囁き、朝の光の中で微笑む。
食卓には、色とりどりのフルーツや、美しい装飾が施されたケーキが並ぶ。エレナが作る、地味なスープや茶色いパンとは大違いだ。
「ああ、幸せだ……。これこそが、貴族の生活だ」
アランはリリアの手を取り、満足げに言った。
しかし、その「幸せ」は、砂上の楼閣のように脆く、崩れ去るのに時間はかからなかった。
異変は、小さなことから始まった。
「……おい、今日の紅茶、味が変じゃないか?」
ある朝、アランはカップを置いて眉をひそめた。
香りが薄く、えぐみが強い。いつも飲んでいた、芳醇で深みのある紅茶とは別物だ。
「そうですかぁ? いつもの茶葉ですよぉ」
リリアは不思議そうに首を傾げる。
メイド長を呼んで問いただすと、彼女は申し訳なさそうに答えた。
「申し訳ございません、旦那様。いつもの最高級茶葉は、エレナ様がご実家のツテで特別に安く仕入れていたものでして……。正規のルートで購入すると予算オーバーしてしまうため、ランクを下げさせていただきました」
「な……?」
それだけではなかった。
昼食に出された肉は硬く、ワインは酸っぱい。
風呂のお湯はぬるく、タオルはゴワゴワしている。
庭のバラは見る影もなく枯れ始め、屋敷のあちこちに埃が目立つようになった。
「どうなっているんだ! 使用人たちがたるんでいるんじゃないか!?」
アランが怒鳴り散らすと、執事が静かに、しかし冷ややかに告げた。
「旦那様。使用人たちは以前と変わらず働いております。……ただ、『指示を出す方』がいなくなっただけです」
「指示だと?」
「はい。エレナ様は、毎朝早くに起きて、市場の相場を確認し、その日の食材を厳選し、使用人一人一人の体調や能力に合わせて細かく指示を出しておられました。予算配分、在庫管理、修繕計画……全て、エレナ様がお一人でなさっていたのです」
執事は、アランの前に一冊のノートを差し出した。
エレナが残していった『家計簿』だ。
アランはそれを開いた。
そこには、びっしりと細かい文字で、日々の記録が記されていた。
『〇月〇日 アラン様は胃がお疲れの様子。夕食は消化の良いスープに変更。香辛料は控えること』
『〇月×日 雨が続きそうなので、屋根の修繕を手配。予算は予備費から捻出』
『リリア様がお越しになる日は、彼女の好きなピンク色の花を飾ること。アラン様が喜ばれるから』
数字の羅列だと思っていた家計簿の隙間に、アランへの配慮と、屋敷を守るための工夫が、無数に書き込まれていた。
「僕の好物のワインも……季節ごとに変わる寝具も……全て、彼女が?」
アランの手が震えた。
彼は、何も知らなかったのだ。
自分が享受していた「快適な生活」が、当たり前のものではなく、エレナという土台の上に成り立っていたことを。
彼女は「無機質な壁」などではなかった。
この屋敷を、そしてアラン自身を、雨風から守る「堅牢な城壁」だったのだ。
それに比べて、リリアはどうだ。
彼女は屋敷の管理など興味もなく、毎日新しいドレスや宝石をねだるばかり。
「予算がない」と言えば、「愛していないの?」と泣き落としにかかる。
エレナがコツコツと貯めた貯蓄は、リリアの浪費によって湯水のように消えていった。
「……おい、リリア。少しは家のことをやってくれないか」
「ええー? そんなの、使用人の仕事でしょ? 私はアランを癒してあげる係だもん」
リリアは悪びれもせずに笑う。
その笑顔が、今はひどく空虚で、醜く見えた。
ある日、借金取りが屋敷に押しかけてきた。
かつてエレナが完済したはずの借金が、リリアの浪費と、アランの事業失敗(エレナの助言がなくなったせいだ)によって、再び膨れ上がっていたのだ。
「金を出せ! ないなら屋敷を明け渡せ!」
「ひぃっ! アラン、なんとかしてよ! 怖い!」
リリアはアランの後ろに隠れて震えるだけだ。
アランは呆然と立ち尽くした。
かつて、借金取りが来たとき、エレナはどうしていただろう。
彼女は一歩も引かず、理路整然と返済計画を提示し、彼らを追い返していた。
その背中は、どれほど頼もしかっただろうか。
アランは、失ったものの大きさに気づき、その場に膝をついた。
◇
その頃、エレナは王都の片隅にある小さな商会で働いていた。
実家に戻ることはせず、自分の腕一本で生きていくことを選んだのだ。
彼女の計算能力と管理手腕は、すぐに評判となり、多くの店から引く手あまたとなっていた。
「エレナさん、この帳簿の整理、ありがとう! おかげで助かったよ」
「いいえ。無駄な経費を削れば、もっと利益が出ますよ」
店主たちに感謝され、適正な報酬を受け取る。
地味な仕事かもしれないが、エレナにとっては充実した日々だった。
誰かの役に立ち、それを認められる喜び。
オルブライト家では決して得られなかったものだ。
ある雨の日。
商会の店先に、やつれ果てた男が立っていた。
ボロボロのコートを着て、雨に濡れたその姿は、かつての「氷の貴公子」の面影もなかった。
「……アラン様?」
エレナが声をかけると、男はビクリと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は虚ろで、深い後悔の色が宿っていた。
「エレナ……。探したよ……」
アランはふらふらと歩み寄り、エレナの手を掴もうとした。
だが、エレナは一歩下がってそれを避けた。
「何の御用でしょうか」
「頼む……戻ってきてくれ。君がいないと、何もかもが駄目なんだ」
アランは泣き崩れた。
屋敷は差し押さえられ、リリアは金がないと分かるとすぐに逃げ出したという。
今のアランには、家も、金も、愛する人も、何も残っていなかった。
「僕が悪かった。君のありがたさが、身に染みてわかったよ。……君は、僕にとって空気のような存在だった。なくてはならない、大切な……」
「アラン様」
エレナは静かに、彼の言葉を遮った。
「空気は無くなって初めてその価値に気づくものです。でも、一度吐き出した空気は、二度と戻ってきません」
「ッ……!」
「私は、あなたのために尽くしました。私の持てる全てを使って、あなたと家を守りました。……でも、あなたはそれを見ようともしなかった」
エレナの言葉に、アランは青ざめた。
怒鳴られるわけでも、罵られるわけでもない。
ただ、静かな事実の列挙が、何よりも鋭く彼の心を抉った。
「私は今、とても幸せです。私の仕事を評価し、対等に扱ってくれる人たちがいます。……自分の価値を認めてくれる場所で生きることが、こんなにも息がしやすいことだとは知りませんでした」
エレナは微笑んだ。
それは、アランが一度も見たことのない、血の通った、美しい笑顔だった。
「灰色の壁」だと思っていた彼女は、こんなにも鮮やかな色を持っていたのだ。
「もう二度と、あなたの元には戻りません。……さようなら、アラン様」
エレナは店の中へと戻っていった。
閉ざされた扉の向こうには、温かな光と、彼女を待つ人々の声がある。
雨の中に残されたアランは、冷たい石畳の上に崩れ落ち、声を上げて泣いた。
◇
数年後。
王都で一番と評判の商会には、敏腕の女番頭がいるという噂が流れた。
彼女は常に冷静沈着で、数字に強く、そして誰に対しても誠実だという。
彼女の隣には、彼女を支え、深く愛する誠実な夫の姿があった。
二人は互いに尊重し合い、穏やかで色彩豊かな家庭を築いている。
一方、路地裏の安酒場では、かつて伯爵だったという男が、安酒をあおりながら管を巻いている姿が目撃された。
「俺は幸せだったんだ」「取り戻したい」と、虚空に向かって呟きながら。
彼が失った「色彩」は、二度と戻ることはなかった。
人は、失ってからその価値に気づくと言う。
だが、気づいた時にはもう遅いのだ。
愛とは、日々の積み重ねであり、一度崩れた信頼は、簡単には修復できないのだから。




