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火星年代記⑲

 役割は、やがて形を要求した。

 行動の違いは、繰り返されるうちに身体へと刻まれていく。


 攻撃を担う個体は、より前方へ突き出た突起を持つようになった。

 追跡を担う個体は、体軸が細長くなり、地表との摩擦を減らした。

 監視を担う個体は、光に反応する細胞を体表に広く分布させた。


 違いは最初、わずかだった。

 だが、火星の環境は、そのわずかな差を容赦なく選別した。



 捕食成功率の分析によれば、役割に特化した個体を含む群れは、そうでない群れに比べて生存率が1.9倍高かった。

 特化は、リスクだったが、同時に利益でもあった。


 万能であることより、必要とされること。

 火星生命は、その選択をした。



 形態分化が進むにつれ、個体は単独では生きにくくなった。

 攻撃者は索敵が苦手になり

 監視者は捕食能力を失い

 維持者は移動速度が低下した。


 孤立した特化個体の生存率は、わずか12%。


 彼らは、群れなしでは成立しなかった。



 この依存関係が、社会を固定化した。


 群れは単なる集合ではなく

 分解できない機能体となった。



 やがて、群れの移動はより計画的になる。


 監視者が先行し

 追跡者が側面を固め

 攻撃者が後方に控える。


 維持者は中央で、負傷個体と若年個体を守った。


 この配置は、遭遇戦における生存率をさらに32%向上させた。



 火星の大地は、相変わらず過酷だった。


 気圧は50mbar以下。

 水は霜としてしか存在せず

 嵐は数週間続くこともあった。


 だが、群れは崩れなかった。



 ここで、新しい現象が観測される。


 役割を担う個体が、交代するようになった。


 攻撃者だった個体が老化すると

 維持者として中央に移される。

 監視者は、視覚細胞の劣化とともに

 若年個体の保護役へ回る。


 役割は固定ではなく、循環し始めた。



 これは、個体の価値を年齢や強さだけで測らなくなったことを意味する。


 使えなくなったから捨てる

 という選択は

 群れ全体の損失になると理解された。



 理解は、経験の集積だった。


 老いた個体は、地形を覚えていた。

 嵐の周期を知っていた。

 危険な場所を避ける判断を下せた。


 それは、記憶の価値だった。



 こうして、群れの中に「知っている者」が生まれた。


 力ではなく

 速度でもなく

 記憶によって尊重される存在。



 彼らは前に出ない。

 だが、進路は彼らによって決められた。



 この段階で、火星生命は

 初めて「指示に従う」という行動を示す。


 音はない。

 言葉もない。


 あるのは、体色の微妙な変化と

 化学信号の持続時間だけ。


 それでも、群れは一斉に向きを変えた。



 後の研究では、これを

 前言語的合意形成

 と呼ぶ。


 意思決定が

 一個体の衝動ではなく

 集団の記憶に基づいて行われた最初の例だった。



 火星の夜。

 群れは移動を止め

 岩陰に身を寄せる。


 中央には、動かぬ個体。

 だが、その存在が

 群れを導いていた。



 捕食は続く。

 境界は守られる。

 役割は循環する。


 そして、次の変化が始まる。



 それは

 形の違いではなく

 思考の違いだった。

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