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火星年代記⑰

 火星の大地は変わらず乾き続けていた。

 だが、群れの内部では、変化が静かに積み重なっていた。


 道具としての岩を扱う行動が定着してから、数十万年。

 探索型捕食者たちは、同じ場所へ戻り、同じ配置を繰り返し、同じ行動を共有するようになっていた。


 それは単なる習慣ではない。

 行動が「記憶」として、群れに保存され始めていた。



 岩の配置には、わずかな差異があった。


 風向きに合わせた曲線

 夜間の冷却を防ぐための重なり

 若年個体が入りやすい隙間


 これらは偶然ではなく、経験に基づく最適化だった。


 重要なのは、その最適化が一個体の学習ではなく、群れ全体で維持されていたことだ。



 若い個体は、生まれてすぐに岩の扱い方を知っているわけではない。

 彼らは観察する。


 どの岩を選ぶのか

 どこに置くのか

 崩れたとき、誰が最初に直すのか


 模倣が始まり、成功した行動だけが残る。


 学習の速度は、単独個体の3倍に達していた。



 この頃、群れの中心部に、奇妙な行動が見られるようになった。


 使用されなくなった岩を、あえて残す。

 実用性のない配置を、崩さず維持する。


 岩は、防御にも保温にも役立たない。

 だが、そこにあること自体が重要になっていた。



 それは「目印」だった。


 ここは安全だった

 ここで多くの個体が生き延びた

 ここは戻るべき場所だ


 岩は情報を帯び始めた。



 研究者は、これを象徴行動の原型と呼ぶ。


 対象が、機能から切り離され、意味のみを保持する段階。


 地球で言えば、積み石や墓標に近い。



 ある群れでは、中央に円形の空間が作られていた。

 直径は約1.2m。

 内部には岩が置かれていない。


 この空間で、若年個体が最初に食事を与えられる。

 負傷個体が休ませられる。

 争いはここでは起こらない。


 場所が、行動を規定していた。



 この時代、火星生命はまだ音を使わない。

 視覚と化学信号が主な通信手段だった。


 だが、配置された岩の形は、静かな言語として機能した。


 近づくな

 集まれ

 待て


 意味は、見るだけで理解された。



 象徴は、暴力を減らした。


 争いは減少し、致死的衝突は35%低下した。

 集団の存続率は上昇し、寿命も延びた。


 火星において、これは極めて大きな進化だった。



 象徴が共有されると、次に起こるのは役割の固定化である。


 配置を主に行う個体

 警戒に特化する個体

 若年個体を導く個体


 形態の差は小さい。

 だが行動の差は明確だった。



 この段階で、火星生命は初めて「社会」と呼べる構造を持った。


 血縁ではなく

 場所でもなく

 意味によって結ばれた集団。



 夕暮れ。

 赤い地平線の下、岩の円環が影を落とす。


 群れは静かに集まり、身を寄せる。

 そこに儀式はない。

 祈りもない。


 ただ、同じ配置を見ている。



 後の文明は、この行為をこう表現した。


 「最初の約束」


 言葉なき同意。

 破られない前提。



 火星の夜は冷たい。

 だが、その円環の内側だけは、わずかに温度が高かった。


 数値で言えば、2℃。

 それでも、生命には十分だった。

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