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火星年代記⑮

 大型捕食者が火星の生態系の頂点に立ってから、さらに数百万年が流れた。

 火星は相変わらず乾き、寒冷で、不安定だった。だがその不安定さこそが、次の進化を引き起こす圧力となっていた。


 この時代、火星の気候変動周期は短くなっていた。

 軌道離心率の変動により、10万年単位で氷期と間氷期が交互に訪れる。

 氷期には大気中の水蒸気量が増え、霜と薄い雪が広範囲に降る。

 間氷期にはそれらが一気に失われ、地表は再び死の砂漠へ戻る。


 生き残るには、単なる強さでは足りなかった。

 「変化を予測する能力」が必要になった。



 大型捕食者の中に、頭部構造がわずかに肥大した系統が現れた。

 体長は70cm前後と変わらないが、前方中央部に化学信号を統合する組織が集中し始めた。


 この構造は、もともと温度や水分、光量を感知していた細胞群が密集したもので、厚みは約1.2mm。

 そこでは信号の遅延が減少し、反応速度が平均で17%向上していた。


 差は小さい。

 だが、火星ではその17%が生死を分けた。



 彼らは「待つ」ことを覚え始めた。

 霜が降りる時間帯、風向きが変わる瞬間、砂嵐が来る前兆。

 それらを記憶し、行動を変える個体が生き残った。


 捕食行動にも変化が生じる。

 以前は遭遇次第に襲っていたが、知性化個体は獲物の移動経路を観察し、先回りするようになった。


 これにより捕食成功率は32%から61%へ上昇した。


 記憶は力となった。



 記憶を保持するため、神経様組織はさらに複雑化した。

 信号伝達は単なる化学拡散ではなく、イオン勾配による一方向性伝達へ移行する。


 これは火星生命における「原始シナプス」と呼ばれる構造である。

 情報はもはや全身に均等に流れるのではなく、中心部で整理されてから伝えられた。


 思考が生まれ始めた瞬間だった。



 社会にも変化が現れる。

 複合群体の中で、特定の個体が意思決定を主導するようになった。


 進行方向の選択

 獲物への接近タイミング

 退却判断


 これらを担う個体は、群れの中央に位置し、周囲から触覚的な刺激を集中的に受け取っていた。


 彼らは後に「中核個体」と呼ばれる。



 中核個体は、他個体よりも寿命が短かった。

 高い代謝負荷により、平均寿命は7火星年ほどであったのに対し、通常個体は11火星年生きた。


 それでも中核個体の系統は残った。

 群れ全体の生存率を高めるからである。


 ここに、火星生命史上初めて「個体より集団を優先する進化」が成立した。



 やがて、行動は単なる反応ではなくなった。

 失敗した狩りの後、同じ行動を繰り返さない。

 危険な場所を避け、次世代にその情報が引き継がれる。


 遺伝だけでは説明できない変化。

 これは「文化」の萌芽だった。



 この段階の火星生命は、まだ言語を持たない。

 だが、以下の信号体系を使い分けていた。


 ・体温膜の角度変化による視覚信号

 ・地表振動を利用した低周波警告

・化学物質の短距離放出による識別


 これらが組み合わさり、簡易的な意思疎通が成立していた。



 火星の夕暮れ。

 赤い地平線の向こうで砂嵐が生まれる兆候を察知した中核個体は、群れに退避信号を送る。


 群れは即座に移動を開始し、岩陰へと姿を消す。

 数時間後、嵐が通過した跡には、彼らの足跡だけが残った。


 知ることが、生きることになった瞬間だった。



 この時代を、後の研究者はこう呼ぶ。


 「火星初期知性期」


 まだ文明はなく、道具もない。

 だが、思考と記憶と社会が、確かにそこにあった。



 そして、次なる進化の圧力が静かに近づいていた。

 環境変動はさらに激化し、資源は点在化していく。


 生き残るためには、

 より遠くを見通し、

 より複雑に協力し、

 そして、環境を“利用する”必要があった。

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