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火星年代記⑫

 火星の大地に動きが生まれてから数百万年が過ぎた。


 歩行、跳躍、地中生活、乾燥耐性。多様な系統は増えていたが、生命同士の関係は依然として“共存”の範囲にあった。


 死骸を分解し、霜を奪い合い、空気中の薄い有機物を取り合う程度で、生命が生命を「直接食べる」という行為はまだ存在しなかった。しかし、それが永遠に続くほど火星は甘くなかった。気圧は50mbarを下回り、地表の霜はほとんど発生しなくなり、地下の氷も深く後退した。生存に必要な水分と有機物は急速に枯渇しつつあった。


 火星生命はついに選択に追い込まれる。自らの同類以外に、水も栄養も存在しないという事実に。



 ある日、探索型群体の近縁である“跳躍系プラーニャ”は、自身より小さな移動型生物が風に吹かれて転がるのを目撃した。それは乾燥しつつも、まだ中央に0.1mLほどの水分を保持していた。


 跳躍系の個体は本能的にそれへ触れた。触角には化学受容細胞が密集しており、水分や有機物の濃度を即座に検出する仕組みがあった。触れた瞬間、プラーニャの神経束は強い反応を示した。乾燥し、極限まで枯れた環境で、目の前の死にかけた生命体は“貴重な水と栄養の塊”だった。


 その瞬間、火星史上、初めての捕食行動が始まる。



 プラーニャの口器はまだ存在していなかった。しかし、突起の付け根にある強靭な温度差筋(昼に柔らかく夜に硬くなる細胞束)が“押しつぶす”動きを生み出した。跳躍系プラーニャは小さな生命体を覆い、体内から分泌する酵素に似た分解液をしみ出させ、対象を崩れやすくし、水分と有機物を吸収した。


 この行為は偶然ではなかった。


 摂取後、吸収した個体は明らかに活力を取り戻し、跳躍力は約1.4倍へと増加した。獲得した栄養と水は、火星の低温下で即座に生命活動へと転換されたのだ。


 この“成功体験”はプラーニャたちに強い選択圧を与えた。



 それ以降、生物は急速に二つの陣営へ分岐する。


 ・捕食を行う系統(捕食型プラーニャ)

 ・捕食を避け、防御に特化する系統(防衛型プラーニャ)


 この二者は競争と共存を繰り返しながら、それぞれ独自の進化を遂げていった。


 捕食型は触角が鋭敏になり、揮発性有機分子の濃度を遠方から把握できるようになった。行動速度も向上し、移動速度は1日あたり40cmに達した。体内の水保持器官は二倍に肥大し、摂取した水を長期間維持できるように変化した。一方、防衛型は外皮を硬質化し、シリカや酸化鉄を沈着させ“殻”を形成した。跳躍能力を獲得し、捕食者から逃れる新しい戦略を編み出していく。



 捕食と防衛。その相互作用は火星に“形態爆発”を起こした。


 捕食者は“挟む突起”を進化させ、温度差による屈伸を利用した簡易的な顎構造を獲得した。防衛者は“毒液”に近い化学物質を表皮に分泌し、捕食者の突起を痺れさせる能力を進化させた。さらに一部の系統は体を地中へ半分沈めて隠れ、砂嵐で姿をカムフラージュする能力を得た。いずれも、火星という極限環境が生み出した必然の進化だった。



 やがて火星の大地にはこうした多様な生命が同時に存在するようになる。


 ・跳躍しながら小型生物を追う捕食型

 ・外皮を硬質化し沈黙して生きる防衛型

 ・地表をゆっくり移動して霜を集める徘徊型

 ・地下へ潜り乾燥を逃れる潜伏型


 環境の厳しさは増す一方だったが、多様な戦略は生命をしぶとく残し続けた。



 “初めての捕食”は、生命にとって避けては通れない選択だった。


 火星は小さな惑星であり、水も有機物もほとんど存在しない。生き延びるためには、生命は他の生命を取り込むしかなかったのだ。


 捕食の誕生は、火星生命の進化を次の段階へと押し進める。“強さ”ではなく“環境適応”という概念が、生命同士の関係性を形づくるようになった。生命は他種との関わりを通し、より複雑な体、より柔軟な神経網、より精密な行動を獲得していく。



 捕食はやがて、火星生命が高次の動物へ向かう最初の階段となる。


 意思、判断、社会性――そのすべては“他者をどう扱うか”という問いから始まる。火星の赤い大地には、いま確かに生命の影が刻まれつつあった。捕食という選択は、火星生命が知性へ至る長い旅路の第一歩でもあった。

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