火星年代記⑩
火星の大地は、もはや海の気配をほとんど残していなかった。かつて古代海が広がっていた平原は赤い塵に覆われ、薄く乾いた大気は昼夜の温度差を激しく揺らし続けていた。昼は25℃、夜は−85℃。大地は毎日、焼かれ、凍り、また焼かれた。
生命はこの激変に翻弄されていたが、その中で新しい可能性を育てていた。それは「動き」ではなく「位置を変える能力」。前章で生まれた群体の突起は、次の進化を促す重要な“伏線”となっていた。
最初に変化が起きたのは、突起の先端部だった。突起を地中に差し込んだ個体は、水を多く含んだ砂層を偶然掘り当て、生存率が3倍に跳ね上がった。その結果、「掘る突起」を持つ群体が急増した。
突起の内部には、圧力差で水を吸い上げる“原始導管”が形成された。この導管は直径わずか0.02mm。しかし、この細い管が生命の未来を大きく変えた。
地中に根を伸ばす群体は、水を常に確保できるため、乾燥に強くなった。地表に露出した部分は死ぬが、地下の部分は生き残り、次の季節に再び地表へ芽吹く。それは明らかに、植物型生命への第一歩だった。
「歩く生命」はこの時点では存在しなかった。だが、植物型への進化とは別の方向に進む群体もいた。
それらは、突起が風に煽られたとき、偶然にも“屈伸”を起こした。突起の付け根の細胞が、昼の熱で柔らかくなり、夜の冷却で硬くなる。この熱可塑性の差が、突起を収縮させた。
収縮の際の力は平均で0.4ミリニュートン。この微弱な力でも、火星の低重力(地球の0.38倍)では群体の半分をわずかに持ち上げることが出来た。翌朝、群体は昨日の位置から数センチ移動していた。
偶然だった。しかし、偶然が積み重なると、それは“方向性のある変化”となる。移動能力を持つ群体は湿潤地帯へより近づけるため、世代を追うごとにその揺れは大きくなった。そして突起は“足”の原型となった。
火星の大地は、彼らの進化をさらに促すように過酷になっていった。大気圧は160mbarから90mbarへ、そして60mbarへと急落し、空気中の水蒸気は砂嵐に持ち去られ、地表の水源はほぼ霜だけになった。
生命は選択をした。動くか、死ぬか。
群体の中に、僅かに湾曲した突起を持つものが現れた。この突起は“たわみ”が大きく、温度差で曲がる方向に偏りがあった。この偏りが、火星生命に初めて「向き」を与えた。彼らは光の方向へ、わずかに進んだのだ。
光は熱と水を意味した。火星において、光に向かって進むという行為は、生きるための戦略そのものだった。
この時代、火星の空には巨大な砂嵐が頻発した。直径数百キロに及ぶ塵旋風が、天を覆い尽くすように赤い幕となって広がった。風速は最大で毎秒70m。この風が群体を打ち付け、突起を裂き、表皮を乾燥させていった。
だが、風は敵ではなかった。新たな進化の触媒となった。
突起は風により倒されるたび、細胞構造が強化され、折れにくい繊維質が蓄積された。やがて突起は単なる吸水器官ではなく、衝撃を吸収し、向きを保持する“支持器官”となった。生物はついに、“立ち上がろうとした”。
高さはわずか3cm。しかし火星生命にとって、それは空へ伸びる最初の試みだった。この“立ち上がる群体”は、進化の別ルートへと分岐していく。ひとつは植物型に近い静止路線。そしてもうひとつは、生き残るために地表を移動する“探索路線”。
探索路線を選んだ群体は、突起を左右に振りながら、体を少しずつ押し出した。移動速度は1日で10〜15cm。極めてゆっくりだが、火星の風景はさらに遅い。季節が半年続き、雨は百年に一度。火星生命は十分に速かった。
彼らは地表を渡り歩き、霜が多い地域、浅い地下水脈が残る盆地へ移動した。彼らが進む道には黒い点々が残り、それが後の世で「火星の黒い道」として地形に刻まれることになる。
こうして、火星に“歩く影”が現れた。とはいえ、それはまだ足を交互に動かすような歩行ではない。光を追う植物のように、乾きを避ける真菌のように、体をゆっくりと引きずりながら移動する存在だった。しかし、存在としては明らかに“動物型への助走”だった。
群体の内部では、細胞間の情報交換が増加し、化学信号の流れは神経のように組織化されつつあった。温度差センサー、水分センサー、光量センサーが発達し、それらを統合する中心部構造が誕生した。中心部はわずか0.5mmの厚みしか持たなかったが、そこでは生存判断が行われた。地球で言うところの“原始脳”である。
火星生命は、もう単なる群体ではなかった。意思に似た行動の萌芽があった。こうして火星の大地に、三つの進化系統が同時に存在するようになった。
・地中へ根を張り、静止する植物型群体
・霜を求めて地表を移動する半移動型群体
・突起を使い、方向性をもって進む探索型群体
それらは互いに影響を与え合い、競争し、共存した。火星は小さな星でありながら、生命の進化の舞台には十分だった。
大地には赤い塵が舞い、空には薄い青紫の光がかかる。地下では氷が軋み、地表には黒い群体がゆっくりと進む。
火星は乾き、冷え、静まり返っていったが――生命だけは確かに前へ進んでいた。
やがて、この探索型群体が、火星で最初の“明確な動物”へと進化していく。だがそれは、まだ遠い未来の物語である。




