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火星年代記⑨

 火星の海が後退したとき、生命は選択を迫られた。

 深い海に残るか、浅瀬に取り残されるか、あるいは――海が失われる前に、別の場所へ行くか。

 その決断を下したのは、意志ではなかった。

 ただ、乾燥の速度に反応する細胞のゆらぎが、新たな形態を開いた。


 最初に陸へ進んだのは、陸に憧れた生物ではない。

 陸に押し出された生物だ。

 満ち潮が戻らず、薄い水膜がかろうじて彼らを覆っているだけの地帯。

 そこでは、太陽は容赦なく紫外線を降り注ぎ、大気はますます薄く、代謝のための水は分子単位で失われていった。


 水深2cmにも満たない沼地で、生命は「耐える」ことを覚えた。


 浅瀬に残された微生物群の一部は、細胞膜の外側にケイ酸塩を沈着させ、薄い外殻を形成した。

 この外殻は紫外線の56%を遮断し、細胞内部の水の蒸散量を31%低減させた。

 やがて殻は厚みを増し、3層構造を持つようになり、乾燥期間が年単位になると、殻のまま休眠できるようになった。


 これが火星における「原始胞子」である。


 胞子は風に運ばれ、乾いた大地に降り積もった。

 乾燥しても死なず、ただ時を待つ。

 そして数十年、あるいは百年を経て、突然の降雨が赤い大地を濡らすと、胞子は殻を割り、薄い水膜の中で再び動き出した。


 火星生命にとって、時間はもはや線ではなかった。

 点として降り注ぎ、点として芽吹く――

 「偶然の雨」が、生命のリズムを決める時代が始まっていた。


 火星の海がさらに縮退すると、浅瀬の生物は次の工夫を編み出す。

 それは「膜の重層化」である。

 細胞同士が互いに外膜を共有し始め、複数の細胞がひとつの団塊になり、中央部の細胞を乾燥から保護した。


 膜の重なりは、まるで多層の水のうねりのようだった。


 外側の細胞は犠牲となり、紫外線と乾燥に晒されて死んでゆく。

 しかし死んだ細胞は乾いた殻となって層を作り、次の世代を守る。

 層の厚みは数ミリに達し、内部は湿潤を保ったまま代謝を続けていた。


 これが火星における「原始マット群体」の始まりであり、地球でいうストロマトライトに似た構造だった。


 群体は風に削られ、日射に焼かれ、雨に浸されながらも、千年単位で大地に残り続けた。

 火星を赤く染めた酸化鉄の大地に、褐色の群体が点在するようになった。


 しかし、火星生命はそこに長く留まらなかった。

 次に訪れた変化は、膜の端が偶然にもひも状に伸びる現象だった。

 この「ひも状突起」は、風の方向に沿って伸び、乾燥した地表をわずかに移動した。


 移動速度は1日で2cm程度。

 しかし、生命にとって「移動する」という事実は革命的だった。


 突起は最初、単なる物理的変形にすぎなかった。

 だが、突起を持つ群体は湿潤地帯に到達できる確率が2倍になり、生存率が劇的に向上した。

 集団は突起の発達を進め、やがて突起は内部に水を保持する繊維構造を持つようになった。


 火星生命にとって、「足」の誕生である。


 とはいえ、彼らはまだ歩いたわけではない。

 突起は地表に絡みつき、少しずつ体を引き寄せるように動く、きわめて緩慢な移動だった。


 しかし、その緩慢さが重要だった。

 高速で水を失う環境では、急激な動きは生命の破綻を招く。

 ゆっくり動き、ゆっくりと水を使い、ゆっくりと光を受け取る。

 火星の生命は、星の乾きと歩調を合わせて進んでいた。


 火星大気はさらに薄くなり、地表温度は昼は20℃、夜は−80℃まで落ちた。

 日中の温度上昇は細胞を傷つけ、夜の寒気は内部の水を凍らせた。

 氷晶が膜を破壊すれば、生命は一瞬で死ぬ。


 そこで、彼らは凍らないための方法を獲得した。

 細胞は内部に塩類と有機分子(原始的な糖類)を蓄積し、水の凍結点を下げた。

 細胞内の凍結点は−25℃へと低下し、火星の夜に耐えられる個体が増えた。


 また、外膜には微細な凹凸が形成され、朝の霜を集め、水滴として内部に吸収する機能が生まれた。

 火星の霜は、生命にとって海の代わりだった。


 生物たちはもはや“海の民”ではなかった。

 赤い大地の上で、霜を集めて生きる“陸の民”へと変わりつつあった。


 やがて、乾燥と低温の中で有利なのは「小さな体」ではなく「体をつなげた集合」だと分かる。

 群体は互いの膜を重ね合わせ、内部に水路を作った。

 水路は朝の霜から得た水分を全体へと巡らせ、中心の細胞が常に湿潤を保つ仕組みへと進化した。


 群体の大きさは直径5cmから、やがて30cmへと成長し、大地に点々と広がる球形構造となった。

 その表面には暗い色素が増え、太陽光を効率的に吸収して内部を温める温室効果を獲得した。


 外は乾き、中は湿る。


 まるで生命の“灯火”を抱く器のようだった。


 火星の大地に、ついに「影」が生じた。

 球形群体が日差しを遮り、夕暮れの中に黒い輪郭を落とす。

 影は短く、細く揺れていたが、それは確かに「地上生命の痕跡」だった。


 この時代の火星には、海岸線などもう残っていなかった。

 地図にはかつて海だった盆地が広がり、かすかな湿潤地帯に生命が集まっていた。

 盆地の縁には凍結融解のサイクルで削られた段丘があり、その斜面に沿って群体は並んでいた。


 それはあたかも、生命が星の記憶を守るかのようだった。

 かつて海があった場所を、赤い大地と褐色の群体がなぞる。

 まるで「海の墓標」のように。


 こうして、火星の生命は陸へと進出した。

 歩くことはなく、地を這うこともなく、ただ乾きと寒さに適応することで新しい姿を得た。

 彼らはゆっくりと大地を覆い、星の残された水を吸い上げ、繋ぎ止めていた。


 生命が陸に根を下ろしたとき、火星はすでに巨大な乾いた砂漠になりつつあった。

 だが、生命はまだ諦めていなかった。

 海の記憶を抱きしめながら、星そのものの生存戦略を探っていた。


 火星の物語は続いていく。

大地は乾いたが、生命は乾きの中で進化していた。

その影はまだ小さかったが、やがて火星の未来を形作る礎になる。

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