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火星年代記⑧

 火星の変化は、あまりにも静かに始まった。

 海はまだ青く、岸辺には風に削られた柱状玄武岩が並び、原始生物は水中で褐色の光を散らしていた。

 だが、海面近くに棲む微生物たちの外膜が、以前より光を強く受け止めるようになったとき、誰もその意味に気づかなかった。


 太陽光が強くなったのではない。


 火星の空が薄くなり始めていたのだ。


 大気圧はゆっくりと落ちていった。

 0.78気圧が0.6、0.5、0.4と、千年単位のゆっくりとした下降だったが、海は敏感にそれを覚えていた。蒸発量は年平均で3.2%増加し、海面の塩分濃度は1.8%から2.6%へと上昇した。


 そしてある年代――およそ37億年前、火星の磁場がほぼ消失した。


 この瞬間、火星は宇宙に対して裸になった。

 太陽風は弱い大気を削り取り、上空150km付近でプラズマ流が帯状に広がった。その帯は、地球ではオーロラとして輝く現象だが、火星では沈黙した「大気流出の傷跡」でしかなかった。


 海にとって、それは致命的だった。



 海中の生命はまず「流れ」の異変に気づいた。

 大潮の満ち引きの周期がかすかに乱れ、水温がゆっくりと上昇していく。表層の平均水温は以前より3度高くなり、栄養塩は深層へ沈降し、微生物たちは境界層に押し込まれた。


 彼らは生存のため、外膜を厚くし、紫外線を吸収する褐色の色素を増やす。光合成色素はより短波長の光を受け取るように変化し、藍色から黒褐色へと色調を変えた。


 彼らの世界では、それは季節の変動にすぎなかった。

 しかし惑星規模では、火星の「終わり」が始まっていた。



 火星の海は少しずつ後退した。

 海岸線は100年に約40cmずつ遠ざかり、2万年後には25km先へと消えていた。地球でいえば、人間が生まれて死ぬあいだに数メートルしか引かないような、ほとんど気付けない速度だった。

 だが、生命の進化はその遅さの中で確実に方向を変えてゆく。


 深い場所に棲む生物は、塩分濃度の上昇に耐えるためにイオン交換系を強化し、外膜タンパクを変質させて耐乾燥性を獲得し始めた。

 一部の生物は、外膜にシリカを沈着させ、紫外線を反射する仕組みを獲得した。

 それは、のちに乾いた大地に進出する火星生命の「祖形」となる。


 浅瀬では、より劇的な変化が起きていた。


 潮が満ちても以前ほど海岸線を覆わず、干潮のときには海底が長時間露出するようになった。

 表面のぬかるみには、乾燥を嫌う藍藻類が密集し、薄い膜を形成した。

 その膜は徐々に厚くなり、紫外線を遮断し、下層の生物を守った。


 最初の「微小生態圏」だった。


 この膜構造は、水が引くたびにひび割れ、再び水で満たされると内部で酸素が溜まる。酸素濃度は局所的に30%を超え、小さな細胞たちは気泡を利用して水中に浮上した。それは偶然の産物にすぎなかったが、浮上した個体はより強い光を受け、代謝速度を高めることができた。


 繁殖速度は1.4倍に増え、集団は急速な成長を始めた。


 干上がり始めた世界で、生命は「適応」ではなく「工夫」を学び始めていた。



 海は後退し続けた。

 塩湖となった場所では塩分濃度が15%を超え、ほとんどの生物は生きられなかった。だが、ごく一部の細胞は塩分を細胞外に排出するための新しいポンプタンパクを獲得し、生き延びた。彼らは塩湖の底で群れを作り、やがて乾燥すると硬い殻を形成して休眠した。


 火星最初の「耐久体細胞」である。


 休眠膜の厚さは3〜5ミクロンで、紫外線を90%遮断し、内部の代謝をほぼ停止状態に維持した。数百年たって再び水が満ちると、この殻はゆっくりと崩壊し、内部の細胞は再び動き始めた。


 火星における生命の「世代」は、季節や年ではなく、数百年から千年の単位で刻まれるようになった。


 惑星が乾いてゆく速度と、生命が生き延びる術を発見する速度が、静かに均衡しようとしていた。



 そして、火星の海が北半球へ縮退し始めた頃――

 生物たちは新しい能力を獲得する。


 水が引いた浅瀬で、光を強く浴びた細胞の一部が酸素を大量に放出し、周囲の鉄と反応して赤い沈殿物を作り始めた。


 酸化鉄――火星の赤の起源である。


 火星の海が退き始めたとき、星は赤く染まり始めた。

 生物の酸素放出が大地を染色し、その赤は宇宙空間からも見えるほどだった。


 生命が、星の色を変えた。


 それは火星史における最初で最後の「豊穣の時代」の終焉だった。


 海はもはや戻らない。


 だが、生命は乾きゆく世界の中で新しい道を模索していた。


 地上へ、乾いた土壌へ、薄い大気へ――

 火星生命はまだ終わっていなかった。

 ただ、その形を変えようとしているだけだった。

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