火星年代記⑦
火星の海底に広がる赤橙の丘――光合成群落が形成されてから、およそ5千万年が過ぎた。
火星の海はゆっくりと冷えつつあったが、それでも深度数百メートルまでは液体を保っていた。塩濃度は平均1.6%。地球の海より薄いが、生命には十分な電解質だった。
光合成細胞は海底を照らし、酸素を微量に溶かし込み、その酸素が新たなエネルギー反応を生み出していく。
火星の海は「単純な化学の場」から、「複雑な生態系の基盤」へと、静かに変化していった。
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多細胞化の始まりは、単純だった。
光合成細胞の中には、分裂後も互いに離れず、“二つの細胞がつながったまま”成長するものが発生した。
その接合強度は、タンパク質架橋によるわずか数ピコニュートン(pN)。しかし、それは進化の「第一歩」だった。
二細胞体、四細胞体、八細胞体――。
まるで結晶のように整列するものもあれば、乱雑に凝集するものもいた。
だが、光の強い方向へ移動する能力(走光性)を持つ細胞が増えるにつれ、多細胞体の中でも“動きやすい構造”を持つ群が優勢になった。
細胞が列をつくり、その中央に粘性の高い水嚢が生まれる。
これが、初期の“原始的な内部構造”――擬似内臓である。
そして細胞群は、光の方向に合わせ形を変える。
光源が東にあれば、列が東へ伸び、光が弱まれば、群全体がわずかに沈む。
これが火星における「形を持つ生命」のはじまりだった。
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やがて、細胞間の分業が生まれる。
外側の細胞は光を強く吸収し、内側の細胞へ電子を供給する。
外側:光受容細胞
内側:代謝細胞
フォトサイトの光吸収効率は、単独の細胞より約1.4倍に向上。
メタサイトは酸素を使った代謝で、エネルギー産生量を2倍以上に増やした。
互いが互いを支える――
これが、火星の生命が“個体”を越えて“組織”へ進む転換点だった。
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分業が進むと、細胞群は“身体”を獲得した。
最も古い化石痕跡として推定されるものは、直径2〜4mmのレンズ型構造。
表面は赤色、内部は灰色の二層で構成されていた。
外層:光吸収と防御
内層:代謝と複製
この構造は、海底のいたる場所で見つかった。
まるで海草が群生するかのように、火星の海底には多細胞体の“庭園”が広がっていった。
この時代――火星生物科学では「初期多細胞紀(Early Multicell Era)」と呼ばれる。
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多細胞紀の中期、生命は“移動能力”を強化していく。
細胞群の後方部に、薄い繊維束が形成された。
それはアクチンに似たタンパク質の連続体で、長さは50〜200μm。
光の方向に対して折れ曲がり、海水を押し出す“原始の鞭毛”であった。
推進速度はおよそ 0.8〜2.4mm/秒。
当時の海流速度(0.3〜0.6mm/秒)を上回り、生命は“選んだ方向へ移動する力”を手にした。
移動できる多細胞体は、光の強い場所、酸素の多い場所、栄養の多い場所へ移動し、やがて海底に“生物の流れ”を作った。
それは微小な生命にとって、潮流に逆らう大冒険だった。
泳ぐ進化の始まりである。
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そして、ついに“捕食”が始まった。
海底に散らばる小型の単細胞生物を、多細胞体の先端にある“原始口”が取り込むようになった。
原始口といっても、細胞が数個並んだ程度である。
しかし、そこに取り込まれた生物は膜に包まれ、わずかな酸素と酵素によって分解された。
捕食のエネルギーは、光合成の約4倍。
火星の生命は一気に活動的になり、多細胞体はさらに大きく・速く・強いものが優勢になった。
捕食者は体長1〜3cmへ成長し、その姿はすでに“虫”や“幼魚”を思わせる形をしていた。
彼らにはまだ目も骨もなかったが、
前方に光受容細胞が密集し、影や明暗を認識できるようになっていた。
火星で最初の“視覚”的行動である。
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捕食と逃走の連鎖が始まると、生態系は一気に多様化した。
・岩陰に付着し光を蓄える“定着型植物体”
・薄い膜を広げ栄養を吸収する“フィルター群体”
・鞭毛を伸ばして泳ぐ“遊泳捕食体”
・光を反射して仲間へ信号を送る“群れ行動体”
火星の海には、地球とは異なる赤い生態系が形づくられていく。
特に遊泳体の進化は劇的だった。
彼らの身体は流線形になり、後方の鞭毛は大きく発達し、細胞の集団がひとつの“運動器官”として機能した。
推進速度はついに 1cm/秒 を突破。
捕食者と被食者の間に“速度競争”が生じ、進化はさらに加速した。
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この時代の生命は、多くが
「光と酸素に依存する体制」
「細胞間の分業」
「遊泳による行動」
を獲得していた。
それはすでに“魚”というより“原始動物”の段階に達していた。
地球では数十億年かかった歩みを、火星はわずか2億年で駆け抜けたことになる。
理由は、火星の海が浅く、狭く、環境が変化しやすかったからだ。
急激な環境変動――これこそが、生命の“実験場”となり、多彩な形態を育てた。
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そして、ある群れの中から、前方の細胞が“組織的な神経束”へと変化していく。
情報の流れは、光 → 電子 → イオン流 へと統合され、反応速度は従来の5〜8倍に跳ね上がった。
脳の萌芽である。
運動器官も、前後に分化し、“推進と制御”の役割が別れた。
鞭毛の一部は翼状に広がり、体の姿勢を安定させるようになっていた。
火星の海で、初めて“方向性のある泳ぎ”が完成したのだ。
その姿は、まるで赤い砂の中を泳ぐ“影の魚”のようだった。
ここに、火星の原始動物群「マルシアン・ネレイド」の系統が誕生する。
体長3〜7cm。
複層細胞膜と光受容点、筋肉に相当する繊維束、酸素を運ぶ鉄タンパク質。
彼らはすでに、地球の古代魚に近い存在だった。
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火星の海は、単なる化学のゆりかごではなくなった。
捕食者と被食者、泳ぐものと根を張るもの、光を求めるものと影に潜むもの。
世界は“生態系”となり、互いの存在が互いを形づくり、循環が生まれた。
そしてその中心には、光と酸素を得た生命がいた。
彼らは知らぬままに、火星の未来を変える“鍵”となりつつあった。




