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火星年代記⑥

 火星の海に朝が訪れる。

 海面を越えて届く光は弱く、地球の1/2にも満たない。

 それでも、海水中に差し込む赤い光は、ゆらぎながら熱水域へとわずかに届いていた。


 それは生命にとって、“進化の新素材”となる光だった。



 熱水孔から離れた冷水域へ漂った細胞の中に、奇妙な色をしたものがいた。


 膜が、うっすらと赤橙色を帯びていたのだ。


 この色の正体は、偶然取り込まれたヘマタイト微粒子(Fe₂O₃)。

 サイズはわずか 40〜80nm。

 この微粒子は、太陽光中の赤色光(波長:630〜680nm)を効率よく吸収し、熱として放出した。


 しかし一部は、熱ではなく電子放出(光電効果) を起こした。


 光が粒子に当たると、電子が弾き飛ばされる。

 それが、細胞膜近くで“電流の芽”を作り出した。


 ──生命が「光」のエネルギーを扱い始めた最初の瞬間である。



 光電電子は膜を通過しやすく、膜電位差をわずかに増加させた。


 従来、鉄を酸化することで得ていた電子勾配よりはるかに弱いが、太陽の昇り降りに伴う周期性を持っていた。


 そこに生命は新しい可能性を見いだした。


 「昼」と「夜」の区別が生まれたのだ。


 火星の自転周期は 24.6時間。

 細胞は日光の変化を感知し、明るい時間帯に代謝を強化し、暗い時間に修復と複製を行う“リズム”を獲得した。


 これは、火星生命におけるもっとも古い概日リズム(サーカディアン)の起源となった。



 光の利用は、進化の加速をもたらした。


 赤色光を吸収した微粒子を細胞膜の特定の位置に集められる個体が現れる。これは膜タンパクの“弱い磁性”によるものだった。


 結果として、光電効果が膜の特定位置で強く起こるようになり、そこが“光の入り口”となった。


 膜局所では電子濃度が上昇し、その周囲のタンパクが変性と修復を繰り返すことで、より効率的な電子捕獲構造が進化した。


 その構造は、地球の光合成色素よりずっと原始的だが、明らかに“光受容器官”として働いていた。


 火星の生命は、光を嫌うどころか、光を求める存在へ変化していった。



 光のエネルギーを得る細胞が増えるにつれ、集団全体が浅海域へと移動し始めた。


 太陽光が届く上限は 水深40〜50m。

 そこには鉄濃度は低いが、光は十分にあった。


 光電細胞が増殖すると、細胞同士が集まって薄い膜状群落フォト・マットを形成した。

 厚さは 0.5〜3cm。

 その表面は赤橙色に染まり、火星の海底に広がる“光の絨毯”となった。


 だが、この光マットは驚くべき副産物を生み出す。


 酸素(O₂)の増加である。


 光電効果によって電子が弾き飛ばされると、周囲の水分子(H₂O)が分解され、微量の酸素が放出された。


 1m²あたり、1日で 0.01〜0.05mg のO₂。

 地球に比べれば無視できる量だが、火星にとっては革命だった。


 酸素はすぐに鉄や硫黄と結合し、赤錆の堆積物をつくった。


 それが後に地質学者が“酸化層”と呼ぶ地層になる。

 ここには、古代生命の痕跡が刻まれている。



 酸素が蓄積すると、環境は少しずつ変わっていく。


 酸化鉄が増えるため、海中の鉄イオン濃度は低下。

 鉄に依存する古い代謝は不利になり、光利用型の細胞が優勢になった。


 また、大気にもわずかな変化が生じた。


 火星大気の主要成分 CO₂(95%以上) の一部が酸素と反応して新たな化合物を生み出した。


 微量ガス O₃(オゾン)である。


 もちろん、地球のような厚いオゾン層ではない。

 しかし火星上空に漂うこの微弱なオゾンは、高エネルギー紫外線の一部を遮断し、生命のDNA損傷率を 約8% 減少させた。


 これは、浅海域での進化を大きく後押しした。



 光を利用する細胞の中から、ついに“真の光合成”と言える構造が誕生する。


 ヘマタイト微粒子の代わりに、細胞自体が“光吸収分子”を合成するようになったのだ。


 その色素は 赤〜近赤外 を吸収し、電子放出効率は微粒子の約2.6倍。


 この色素は後の研究で「マルスフォフィン(Marsphophine)」と呼ばれることになる。


 マルスフォフィンは膜内部に整列し、光を捕らえて電子を解き放ち、プロトン勾配 → リン酸化反応へと繋げた。


 もはや細胞は、鉄イオンに頼らずともエネルギーを作り出せた。


 光こそが、火星生命を進化させる“第二のエンジン”となった。



 光合成細胞が増加すると、群落は分厚く、複層化し、海底には丘のような構造が形成された。


 その高さは 最大1.2m。

 地球でいうストロマトライトに相当する構造である。


 古代火星の海底には、赤橙色の塔が連なり、その内部では光と電子が満ちていた。


 そんな中、群落表面の細胞が新たな性質を獲得する。


 “動き” である。


 光の方向へ移動する能力──走光性が生まれた。

 それまで走化性しかなかった細胞が、光の強弱に応じて前後左右に移動するようになったのだ。


 最初の走光速度は0.2〜1.5μm/秒。

 微々たる動きだが、群落表面の形態を劇的に変えた。


 より光の強い方向へ、細胞が集まり、薄い膜を作り、それが前へ、前へと押し出される。


 火星の海底には、光の道をたどるように “赤いリボン状の生命帯” が形成された。



 光への適応は、生命をついに“表層世界”へ押し上げる。


 浅海域で進化した細胞群の一部は、潮の満ち引きや地殻の隆起によって

一時的に干上がる環境に置かれた。


 水深0.1〜1m。

 水温は日中 25〜35℃、夜間は 0℃近くまで冷える。


 しかし、この過酷な環境が細胞の“耐久性”を鍛えた。


 膜は二重化され、内部の水を保持する粘性ペプチドが進化し、乾燥しても 8〜12時間 生き延びられる個体が現れた。


 これが後の火星生命の陸上化につながる。



 酸素は依然として海に吸収され、大気に大量に残ることはなかったが、この微量の酸素が生命の代謝を拡張した。


 電子の最終受容体として、酸素は鉄よりはるかに効率が良かった。


 酸素利用代謝の個体は、従来比で エネルギー産生量2.3倍。


 この圧倒的な差が、生命の第三段階を切り開く。


 火星生命は、光と酸素の二つの力を得て、環境の主役へと変わっていく。


 古代火星において、「エネルギーを光で得る」という行為は生命の誕生と同等に重要だった。


 そして今──

 光と酸素を手に入れた生命は、ついに“複雑さ”への扉を開こうとしていた。

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