火星年代記⑤
火星の海の暗闇を満たすのは、終わりなき化学のざわめきだった。
熱水孔から噴出する硫化水素、鉄、二酸化炭素、そして温度の乱れ。
それらがゆっくりと混ざり合い、原始細胞はその揺らぎに身を委ねて生きていた。
しかし、ある日、海底の温度が変わった。
通常、熱水孔の噴出温度は 280〜310℃ の範囲だが、この時は突発的なマグマ流入により、周囲の温度勾配が 1.5倍 に跳ね上がった。
環境は揺さぶられ、細胞たちは暴流に巻き込まれ、多くが熱変性して死滅した。
だが、この混乱こそが生命の次の段階を生み出した。
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温度が揺らぐほど、分子は暴れ、余分なエネルギーを生み、そのエネルギーは細胞の内部で“利用可能な形”へ変換されはじめた。
変換の中心に立ったのは、鉄と硫黄という火星の豊富な元素だった。
海底には鉄イオン Fe²⁺ が大量に溶け出しており、熱水孔の硫黄由来化合物と触れ合うと、Fe²⁺ → Fe³⁺ に変化する。この酸化反応で 電子(e⁻) が放出された。
──生命がエネルギーとして扱える「電子」が、初めて火星の細胞内部に流れ込んだ瞬間である。
細胞膜に埋め込まれたペプチドのうち数個が、偶然にも電子の流れを安定化させる配置をとった。電子は分子から分子へ伝わり、そのエネルギーは膜の両側にプロトン勾配を作る。
プロトン濃度差 ΔpH は 0.3〜0.5。この極めて弱い勾配が、やがて火星生命における“原始ATP類似分子”の合成を可能にする。
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原始細胞の内部では、電子とプロトンの勾配を利用して“エネルギーを蓄える構造” が生まれ始めた。
それはATPとは異なり、より単純なリン酸化合物であった。
構造の推定式はこうだ。
H₂P–O–P–O⁻(二リン酸鎖の原型)
この分子は、勾配によって供給されたエネルギーを一時的に保持し、必要なときに放出する。
これが、火星生命における代謝エネルギーの“心臓”となった。
細胞たちは、この分子を使って膜の再構築、核酸鎖の修復、アミノ酸の結合といった工程を行った。
もはや生命は、環境に揺さぶられるだけの存在ではなかった。
“自ら揺らぎを利用し、未来を組み立てる” そんな行為を始めたのだ。
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エネルギーを得た細胞は繁栄した。
特に海底の“中温域”に位置する細胞群は、分裂速度が 1日あたり0.8回 → 1.6回 に倍増した。
しかし、繁栄には終わりがある。
分裂が増えた分、細胞はより多くの鉄や硫黄を消費し、海底の栄養濃度は徐々に低下した。
そこで細胞たちはまた別の進化を開始した。
「酸化鉄層から鉄を奪う」能力の誕生である。
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海底には古くから堆積した酸化鉄(FeO)が広がっていた。
その表面にペプチドが貼り付き、Fe²⁺ を遊離させる働きを持つものが現れた。
この能力を持つ細胞は、栄養源を求めて岩肌を“削る”ような生活を始めた。
岩肌を侵食すると、内側から新しい鉱物が出現し、そこに含まれる微量のニッケル、コバルト、マンガンがさらなる代謝経路を生み出した。
これら遷移金属は電子のやり取りに優れ、火星生命の代謝は次第に複雑化し、多段階のエネルギー生成サイクルへと進化していった。
原始細胞はついに「化学合成生物」 と呼べる姿に至ったのである。
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代謝が発達すると、熱水孔の縁には厚いバイオフィルムが形成され、高度に協力的な“微生物マット”が生まれた。
層は三つに分かれた。
上層:Fe²⁺酸化群(電子取得)
中層:リン酸化反応群(エネルギー蓄積)
下層:核酸増幅群(情報複製)
これら三層は、もはや単なる細胞の集合ではなく、互いの代謝産物を利用し合う“原始的な生態系”を形成していた。
この構造の厚さは 最大6cm に達し、火星の海底に連なる橙色の柱状構造として成長した。
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生命の増加は、環境にも影響を与え始めた。
Fe²⁺ の酸化によって生じる Fe³⁺ は沈殿し、海底に茶褐色の層を形成する。この過程で、細胞は副産物として分子状酸素(O₂) を微量生成していた。
量は非常に微弱だが、海水1リットルあたり 0.02mg 程度の酸素が局所的に発生するようになった。
火星の大気はほとんどCO₂だった。
だから酸素は瞬時に他の元素と反応して消え、大気全体の増加には至らなかった。
しかし──
この酸素こそが、後に火星の生命進化に決定的な“別の扉”を開く伏跡となる。
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代謝が確立された細胞群には、新たな行動が現れ始めた。
細胞膜に組み込まれたペプチドの中で、温度差に応じて張力を変える配列 が進化し、細胞は水流に対して“向きを変える”ことができるようになった。
正確に言うと、熱水孔から遠ざかるほど膜は硬くなり、近づくほど柔らかくなる。その差が微弱な形の変化を生み、細胞の動きが一方向性を帯びた。
これが、火星生命における初期走化性(chemotaxis)の起源 である。
最適温度(約 65℃前後)へ向かい、栄養濃度の高い領域へ移動する細胞が増え、やがて分布は熱水孔周囲の“輪”のような形になった。
生命は、場所を選び始めた。
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そして、この移動能力が大変革を引き起こす。
熱水孔から“外海”へ向かって流され、環境の薄い海域へ到達する個体が現れた。
そこは温度が 20℃〜0℃ の冷水域。
金属イオンは少なく、代謝反応はほとんど進まない。
だが、たった一つの細胞がこの環境で生き延びた。
細胞膜に、「酸化鉄を触媒する特殊ペプチド」が存在したためだ。
このペプチドが外海の微量なFe²⁺を酸化し、ごくわずかな電子勾配を作り出した。
その量、わずか 通常代謝の数百分の一。
しかし、それで十分だった。
細胞は死なず、ゆっくりと、ほんの少しだけ分裂した。
これが、火星生命にとっての“生息域拡大”の第一歩 となった。
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生命は熱水孔に留まらず、海全体へ広がり始めた。
代謝を持った細胞は、もはや単なる物理的存在ではない。
自ら環境を読み、自らエネルギーを組み替え、自ら未来を選び始めたのだ。
「代謝」とは、生命が宇宙の中に“自己の流れ” を築く行為である。
火星の海は今、その流れを生み出すために大きくうねり始めていた。




