火星年代記④
火星の海底を満たす暗闇は、依然として深く、静かだった。
太陽光はほとんど届かない。
海面から三千メートル下、光はすべて赤い泥のように吸収され、ただ熱水孔の白く濁った光だけが微かに揺れている。
誕生したばかりの原始細胞は、熱水孔の表面に付着しながら“存在すること”を学び始めていた。
直径は およそ1〜3μm、内部には短い核酸鎖が漂い、周囲の分子を取り込み、分解し、組み替える。
この頃の火星の海は、地球よりも金属イオンが豊富だった。
特に Fe²⁺(二価鉄) が濃度 0.3〜0.7mM の範囲で存在し、細胞内の反応に“電子”と“構造”を提供した。
火星の生命は、地球の生命と同じく炭素を基盤としたが、鉄との結びつきがより強かった。
これは後に、火星生命の代謝の根幹を形作る特徴となる。
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初期の原始細胞は、まだ進化らしい進化をしていなかった。
複製率は低く、分裂の際にはしばしば失敗し、中身が流れ出て消えてしまう。
しかし、熱水孔の縁に張り付く細胞群の中には、“少しだけ長く形を保つ”ものが現れ始めた。
細胞膜の厚さは平均 4nm。
地球の原始膜よりも薄い。
火星は地球よりも海水の塩分が低く、イオン勾配が緩やかだったため、膜が強くなくても破れにくかった。
あるとき、一つの細胞膜の中で、偶然、イソプレノイド鎖(炭素が枝分かれした脂質)が合成された。
この分子は膜を硬くし、熱耐性を高めた。
膜の安定時間が 3倍 に延びた。
その細胞は分裂に成功し、子孫を残した。
子孫はさらに分裂し、その膜構造を受け継いだ。
やがて海底の一角には、
イソプレノイド膜を持つ細胞だけが密集した「場」が形成された。
これが、火星生命における最初の適応放散の萌芽となった。
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温度は常に揺らいでいた。
熱水孔の噴出量が増えれば、周囲は 100℃ を超えることもあった。
噴出が弱まれば一気に 40℃ 近くまで下がる。
この環境変動が、分子の組み合わせを変え、細胞たちに“選択”を迫った。
温度勾配が 1cm あたり 2〜3℃ ある領域で、細胞は上下方向にゆっくりと移動した。正確には「移動している」のではなく、高温で軽くなった膜分子が膨張し、 低温で収縮することの繰り返しによって自然と最適領域に押し上げられたり沈んだりしていた。
この“揺れ続ける運命”が、火星生命に固有の特色を与えた。
すなわち──
火星生命は「環境の変動を利用して生きる」生物である。
地球のように環境を恒常的に保つ代謝に重きを置くのではなく、環境の揺らぎそのものを“代謝の流れに組み込んだ”。
火星生命は、常に世界に揺さぶられながら成長する存在となった。
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やがて、細胞内部では大きな変化が始まった。
核酸鎖の長さは 100〜200塩基 にまで成長し、複製の際にわずかに自動修復のような動きを見せる。アミノ酸の生成も安定し、内部には簡易なペプチドが蓄積した。
特に硫黄を含む メチオニン や システイン が豊富で、熱水孔由来の硫黄化合物と親和性が高かった。
これにより、細胞内部の分子は鉄イオン(Fe²⁺)・硫黄・炭素鎖の三者で
複雑なネットワークを作れるようになった。
これは、後に地球で発達するタンパク質代謝の“最も原始的な形”だった。
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原始細胞の中には、熱水孔の岩肌に定着したまま動かない者もいたし、
わずかに水流に乗って漂う者もいた。
漂う細胞は危険だった。
熱水の中心に巻き込まれれば一瞬でタンパク質が変性し、冷たい外海に流れ出れば反応が停止してしまう。
しかし、漂う細胞には一点だけ利点があった。
新しい化学環境に触れられる。
海底の別の熱水孔、別の金属イオン、別のpH勾配──
環境の組み合わせが変わるたびに、細胞内部の反応は“別の進化の道”を試し始めた。
安定した場所に留まる細胞は安全だが変化が少ない。
漂う細胞は危険だが進化の速度が速い。
やがて、この二つの集団は“性質の違う生命系統”として分化し始める。
地球の生命でも、熱水孔起源の生物と移動性の微生物は
明確に進化経路が分かれた。
火星でも同じことが起こったのである。
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漂う細胞の中には、ついに“膜の収縮と膨張を制御する”分子が現れた。
膜に挿入されたペプチドが温度差に応じて形を変え、細胞全体を微かに押し出す。
動く距離は 1時間に数十μm。
しかし、この微小な運動が水流と重力を利用して細胞を最適な温度層に誘導した。
これは、地球の微生物が持つ“走性”の火星版の誕生であった。
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こうして、火星の海底は
序盤の生命進化にとって最適な実験場となった。
熱水孔の化学反応は常に新しい分子を供給し、細胞たちはその混沌の中から“安定して複製し続ける仕組み”を少しずつ確立していく。
細胞集団の総数は海底全体で 10²⁷〜10²⁹ に達していたと推定される。
その莫大な数の中で、わずか1つの分子構造が有利に働けば、すぐに集団全体がその性質を獲得する。
生命は、個ではなく、集団として、環境として、世界全体が一つの方向に押し流す。
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熱水孔の縁には、やがて原始細胞が分厚く堆積し、多層の薄いフィルムを形成した。高さは 1〜2cm、面積は 数平方メートル。
これは地球で最古の化石とされるストロマトライトの前段階に似ており、火星生命が“群れとして生き始めた”証拠だった。
フィルムの表面では、原始細胞同士が膜断片を交換し、内部の分子を共有し、 環境変化に合わせて一斉に反応を変化させた。
つまり、彼らはもう
“単なる泡”ではなくなっていた。
彼らは、世界とともに呼吸し、世界に揺さぶられながら形を保つ「細胞としての意志」 を獲得していた。
これが、火星生命系の“最初の生命共同体”である。
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この時代、火星はまだ若かった。
海は青く温かく、大気は厚く、火山は活発で、磁場もまだ微弱ながら地表を守っていた。
だが、宇宙は気まぐれだ。
彼らが次の段階へ進む前に、火星に最大の試練が訪れようとしていた。




