火星年代記③
いまから三十八億九千万年前。
火星の空はまだ濃い青色を帯びていた。
大気圧は およそ0.6気圧──現在の火星の百倍以上。
空気中には二酸化炭素が 0.4気圧 ほど満ちており、水蒸気・窒素と合わせて、地球の原始大気とよく似た構成をしていた。
北半球の大盆地──後に「アクア・マレス」と呼ばれる海は、現在の地球で言えば北極海とアラル海を足しても追いつかないほど広大で、表面積は 約5,000,000平方キロメートル と推定されている。
海水の塩分濃度は 1.8%。地球の海(3.5%)より薄く、淡い緑青色をしていた。
海面の温度は平均 15℃。
だが、深く潜れば急激に暗く、温かく、異様に沈黙した世界が広がる。
海底には長さ数百キロにおよぶ裂け目が走り、そこから 120〜180℃ の熱水が噴き出していた。
火星の内部はまだ若く、核は固まりきっていない。
マントルの対流は今よりもはるかに強く、地殻は常にわずかに震えていた。
熱水は鉄、硫黄、カルシウム、マグネシウム、炭酸塩を豊富に含み、“鉱物スープ”と呼ぶのがふさわしいほど濃密だった。その柱が暗い海底に噴き出すと、黒い煙のような粒子(硫化鉄)が対流に乗り、温度勾配の中で複雑な化学反応を起こす。
熱水孔の縁にはFeS(硫化鉄) や FeS₂(黄鉄鉱) の壁が形成され、その表面には自然に 0.2〜0.4V の電位差が生じていた。
このわずかな電位差が、生命の始まりに必要な「電子の流れ」を提供した。
地球の生命誕生モデルと同じく、火星でも電気化学が生命の根幹となったのだ。
海底の裂け目近くには、常に高温の熱水が吹き出している。
しかしその少し外側、温度が 60〜80℃ に落ち着く領域──そこが生命誕生の舞台となる。
温度の変動は ±2℃/分 程度。
この微妙な揺らぎが、分子を壊し、また作り直し、果てしない試行錯誤を繰り返させた。
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最初に“生命の種”が宿ったのは、泡のような微小な膜構造だった。
脂肪酸が集合すると自然に球殻を作る──
これは地球の生命誕生でも観測された「ベシクル形成」と呼ばれる現象だ。
火星の海底でも同じことが起きていた。
膜の直径は 10〜30μm。
内部に有機分子を閉じ込め、外界との境界を作る。
泡は波に揺れ、割れ、また新しく生まれる。
その泡の内側で、一次的な化学反応が進行した。
硫化鉄の触媒作用により、炭素鎖・アミノ酸・核酸様化合物が複雑なネットワークを形成し始める。
やがて、長さ 10〜20塩基 の短い核酸鎖のような分子が生まれた。
それはまだ“遺伝子”とは呼べない。
しかし、偶然にも自己複製に似た振る舞いを示すものがあった。
1回の複製に 約14分。
成功率は 10⁻⁵(10万回に1回)。
生命にとって絶望的な確率だが、海底には毎秒 約10¹²個 の泡が形成されていた。
確率の低さを、数の暴力が補った。
生命は、偶然の奇跡ではなく、世界そのものがもたらす必然の積み重ねによって生まれた。
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複製能力を持つ分子が泡の内部に閉じ込められると、環境は次の段階へと進んだ。
泡の膜が二重構造となり、直径 1〜3μm のより安定した形へ進化した。
泡はもはや単なる化学反応容器ではなく、「外界から自分を切り離す領域」、つまり原始細胞の姿をとり始めていた。
膜の内外には微弱な pH 勾配(0.3〜0.8)が形成され、それがエネルギーの源として働いた。
細胞内の反応は外界よりも高速化し、分子の複製効率は 約20倍 に跳ね上がった。
これが、火星生命の“誕生”である。
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原始細胞は、熱水孔周辺の岩に付着して生きていた。
温度変化に応じてゆっくりと移動し、最適な反応領域を探す様子は、のちの生命の行動戦略をすでに思わせる。
内部の核酸鎖は、外界の分子を取り込み、ときに自らと結合させ、
やがて長さ 40〜60塩基 のより複雑な分子へ成長していった。
そのメカニズムは単純だ。
外界からランダムにやってくる分子の半分を捨て、半分を取り込む。
うまく働くものは残り、うまく働かないものは自然と排除される。
これは進化の最も根源的な姿── “変化し続ける化学反応”である。
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海は静かだった。
しかし、海底の裂け目では、絶えず熱が噴き出し、電流が走り、化学反応が繰り返されていた。
一つひとつの原始細胞の寿命は、およそ 数時間から数十時間。
しかし、複製を繰り返すことで系全体は「消えない流れ」を作り出す。
この“流れ”こそが生命の本質だった。
火星の海底では、まだ誰も知らない歴史がすでに始まっていた。
赤い惑星の静寂の底で、世界は 生命という現象 を試し始めていたのだ。




