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火星年代記②

 火星はかつて、今とは似ても似つかぬ姿をしていた。

 赤錆に覆われるよりも前──この惑星は青い霞を纏い、雲が流れ、広大な海が満ちていた。


 その時代を、地質学者たちはこう呼ぶ。

「ノアキアン(Noachian)」──約40億〜37億年前。


 地球に生命が芽吹いた頃、火星もまた、静かにその胎動を始めていた。



 火星の古海は深くはなかった。

 最大でも数百メートル、場所によっては浅瀬が広がり、濁った赤褐色の水が大地を洗っていた。


 大気圧は 0.5〜1.7 bar、現在の数百倍。

 空には水蒸気と二酸化炭素が巡り、薄い雲は太陽の光を柔らかく散らした。


 その海底では、岩と鉱物、熱水、光が出会い、複雑な化学反応が絶え間なく繰り返されていた。


 火星の地下では、未だ地熱が脈動していた。

 小規模ながら、地球の深海熱水孔に似た“鉱物の噴き出し口”が存在し、

 鉄、ニッケル、硫黄が溶けた水が海へと注ぎ込んだ。


 そこは、惑星の呼吸孔のようだった。



 その岩肌に、奇妙な集合が生まれた。


 最初は、ただの炭素鎖の断片。

 メタン、ホルムアルデヒド、シアン化物──

 宇宙空間で生まれ、隕石に乗って運ばれた分子たちが、

 火星の海底で新しい組み合わせを模索し始めた。


 鉱物表面には、電荷の偏りがあった。

 そこに炭素鎖が吸着すると、分子の端が引き伸ばされ、

 奇妙な反応が起こる。


 ──カルボキシル基(−COOH)の出現。

 ──脂肪酸の形成。

 ──親水性と疎水性の分離。


 最初の“ミセル”が、火星の海底で生まれた。


 泡は波に砕け、また生まれ、砕けては生まれた。

 その繰り返しの果てに、偶然の確率は必然へと傾いていく。


 炭素鎖が二重層を作り、

 内部に化学物質を閉じ込めたとき、

 火星の海に初めて“内と外”が区別された。


 それは、まだ生命とは呼べない。

 だが生命の全ては、この境界から始まった。



 やがて、泡の内部では分子が崩れずに生き残る時間が増えた。

 水素と二酸化炭素の反応が、内部でエネルギーを生み、

 それを利用して分子鎖は少しずつ複製を始めた。


 炭素鎖は長くなり、

 ときに折れ曲がり、

 ときに自己を写し、

 再び岩へ戻るのではなく、泡の内部に留まることを選んだ。


 これが“プロトセル”の誕生だった。



 プロトセルは、火星の浅い海を漂った。

 温度差が生む対流が、彼らを新しい環境へと運んだ。


 浅瀬の太陽光を浴び、温められた脂質膜は柔らかくなり、

 栄養分を取り込みやすくなった。

 夜が訪れ温度が下がると、膜は硬くなり、内部を守った。


 火星の一日――24時間37分のゆっくりとしたリズムが、

 生命の鼓動の原型を刻んだ。



 やがて、一部のプロトセルは分裂を始める。

 炭素鎖が十分に複製されると、膜が裂け、二つに分かれた。


 分裂が成功した個体は残り、

 失敗したものは海に溶けていった。


 火星の古海は、無数の誕生と死の霧の中にあった。


 その中で、構造を保持できる個体だけが次の段階へ進んだ。



 進化は緩やかだった。

 地球のような激しい潮の満ち引きはなく、

 太陽も遠く、エネルギーは限られていた。


 ゆえに火星の生命は、

 “速さ”ではなく“耐久”を選んだ。


 化学反応を抑え、

 環境の変化に備え、

 分裂の周期は長く、

 生存戦略は静かだった。


 しかしその静寂の中で、

 火星の生命は確かに“蓄える”能力を進化させていく。


 エネルギーを素早く消費するのではなく、

 鉱物の界面電荷を利用して“貯める”術を覚えたのだ。


 これは、地球生命にはほとんど見られない特性だった。



 やがて、火星のプロト生命は、

 岩肌に沿って細胞壁を強化し、

 粘土鉱物から電子を奪って代謝を行う“表面生活”へと進んだ。


 その姿は、地球のバクテリアに似ていながら、

 どこか異質だった。


 細胞はまるで岩の一部のように見え、

 明確な境界を持たず、

 環境に溶け込むようにして存在した。


 火星の生命は、

 “赤い大地と同化する道”を選んだのだ。

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