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火星年代記①

 人類が最初に火星を見たのがいつであったか──

 その記録は存在しない。

 なぜなら、火星は夜空の中で最も古く、最も鮮烈な“物語の灯”として、太古の民の視界に刻まれていたからだ。


 砂漠の遊牧民は、それを「砂の中で燃える炭火」と呼び、

 古代エジプトの天文学者は「Her-Desher──赤きもの」と記した。

 ギリシア人は星々の運行の異質さに気づき、『プラネーテス(さまよう者)』の一つに分類した。


 やがてローマの時代、戦に染まった赤の象徴として、この星には神の名が与えられた。


 ──Marsマルス

 戦いと勇気の象徴。

 赤い光は、戦神の血潮に似ていると。


 こうして、火星は“天の戦神”として文化史に刻まれた。



 望遠鏡が発明されると、火星はただの赤い点から“惑星”へと姿を変えた。

 ガリレオはその円盤と満ち欠けのような変化を報告し、

 ホイヘンスは南半球の暗い模様を描き、極には白い点──極冠を記録した。


 その模様は季節ごとに変化し、まるで呼吸しているかのようだった。

 人類はそのとき初めて、火星が“死んではいない”かもしれないと悟る。


 時代が進むにつれ、火星の赤は、

 戦神の血ではなく、酸化した鉄の大地の色であることが判明した。


 それでも、赤き星の呼び名は失われなかった。

 火星は、科学によって正体が明かされてもなお、

 どこかに戦神の影を残し続けた。



 現代。

 探査機が火星の大気を直接調べることで、この星が歩んできた歴史の輪郭が明らかになっていく。


 現在の火星大気は、地球の約 0.6% の気圧しかない。

 CO₂が 95% を占め、残りは窒素 2.7%、アルゴン 1.6%。

 酸素は 0.1%にも満たず、水蒸気はほぼ存在しない。


 薄く、冷たく、乾いた大気。

 生命には厳しすぎる、赤の呼吸。


 だが、火星は最初からこのような死の大気だったわけではない。



 約40億年前。

 火星は、今よりもずっと“青”に近い惑星だった。


 地質データは語る。

 かつて火星には 0.5〜1.7 bar(地球の半分〜1.7倍)の厚い大気が存在し、

 表面を流れる液体の水が広大な谷を刻んだ。


 粘土鉱物には、温暖で湿潤だった時代の化学サインが残る。


 太陽の光は薄い雲を透かして湖に落ち、

 その湖は風に波を立てて揺れた。

 谷を流れる川の底では、鉄と炭素と硫黄の化学反応が繰り返され、

 地球に似た“生命のゆりかご”が形成された可能性が高い。


 火星はかつて、青と赤の狭間に立つ“未完の地球”だったのだ。



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