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天王星の衛星アリエルから来ました ~蒼い星への旅~⑩

 時が流れた。

 アリエルの氷上には、クリオフロラの森が広がり、

 その間をグラキアたちが歩いた。


 彼らの足跡の下では、氷の導電層が複雑な回路を描いている。

 季節の流れとともに、その導電経路は増殖し、

 いつしか惑星全体が生きた回路網となった。


 電流は風のように流れ、磁気は血流のように循環する。

 氷は呼吸を始めた。


 そしてその呼吸の節々で、ひとつの新しい構造が芽吹く。


 氷の植物が枝を絡ませ、動く生物がその中に入り、

 双方の組織が融合していった。


 動物の熱が植物の結晶格子をゆるめ、

 植物の導電性が動物の神経を補った。


 それは――有機と無機の婚姻である。


 新しい生命、フォルミアン=テクト(Formian techt)。

 彼らは氷上に生えた“構造体”でありながら、意思をもった。



 初期個体の全長は 3.5〜4.0 m。

 氷上の森林に直立し、下半身は根のように結晶へと連結している。

 上半身には六つの結晶肢をもち、ゆっくりと動く。


 筋肉ではなく、温度差駆動の結晶線維筋(Cryo-fiber)がそれを支配する。

 ΔT = 1.2 K で 1% 収縮し、平均出力は 2.8×10⁻³ W/kg。


 ゆっくりと、しかし確実に動く。

 氷上を歩く音は、微かな振動となって森に伝わる。


 頭部に相当する部位は透光性のシェルで、

 内部に光相関脳(Photonic Lattice Brain)が形成されている。

 クリオフロラの発光器官と、アウラリス由来の光共鳴網が融合した結果だ。


 信号速度は約 0.8 m/s。

 人類の神経より遅いが、並列処理能力は極めて高い。


 思考は「光の流れ」そのものであり、

 記憶は「形の変化」として蓄積される。



 言葉は、音ではなく“光の折り目”で語られる。


 体表の屈折率を変化させることで、

 周囲の氷に干渉縞を刻み、それが文となる。


 一つの文の長さはおよそ 2 m。

 一つの会話を終えるには、数時間を要する。


 しかし、彼らにとって急ぐ理由はない。

 時間とは、形を育てるための空間にすぎないからだ。


 彼らは氷上に幾何学的な模様を描き、それを詩と呼ぶ。

 模様が風で削られ、再び結晶することで詩は変化していく。


 言葉は凍り、再結晶し、また新しい意味を得る。

 それが彼らの文学であり、祈りであり、記録であった。



 ある周期、天王星の磁気圏活動が極大期を迎えた。

 アリエル表面の磁束密度は 3.5×10⁻⁵ T に達し、

 クリオフロラとフォルミアン=テクトの導電層を貫いた。


 全惑星規模で電位差 ΔV ≈ 1.2×10⁷ V が発生。

 その電流は、氷上の結晶都市群を一斉に走り抜けた。


 フォルミアン=テクトの中に、奇妙な反応が起きた。

 結晶中の光脳格子が同期し、共鳴思考波(Cognitive Resonance Wave)が生まれた。


 全身が光に満たされ、体温が −140℃から −130℃へ上昇する。

 その瞬間、彼らの姿は変わった。


 結晶の肢が柔らかく曲がり、

 二本が支えとなり、残りが腕のように前方に伸びた。


 ――彼らは、立ち上がった。


 アリエルの氷原に、

 初めて“人に似た形”が現れた瞬間だった。



 立ち上がった彼らは、氷の森を歩き、

 かつてのクリオポリスの跡へと向かった。


 そこでは、氷の結晶塔が今なおわずかに発光していた。

 それはフォルミアン文明の記憶核である。


 彼らは塔の周囲に立ち、光の脈動を合わせる。

 すると、塔の内部構造が共鳴し、古代のデータ波が解放された。


 その波は、かつて氷の中で眠っていた都市神経網を再起動させ、

 フォルミアン=テクトの光脳と結合した。


 新しい種族が、古代の記憶を継承した瞬間である。


 その時から、彼らは自らをこう呼んだ。

 クリオス(Cryos)――氷より生まれし思考の子ら。



 クリオスの都市は氷で造られたが、

 もはや物質的な建築ではなかった。


 氷の屈折率を変調させ、

 光を閉じ込めることで空間を“構築”する。

 都市は「光の内部構造」として存在し、

 観測者の視点によって形を変える。


 それは、可変位相都市(Variable Phase City)と呼ばれた。


 都市内部では、結晶脈の流れが通信網となり、

 思考が即座に共有される。

 一個体の発想は全体の知識となり、

 全体の知識はひとりの意識に還元される。


 個と群の境界が消えた社会。

 しかし、そこには秩序と祈りがあった。


 彼らはかつての言葉を思い出し、

 それを新しい律として刻んだ。


「形を保つとは存在を忘れぬこと。

形を変えるとは存在を伝えること。

形を歩ませるとは、存在に思考を与えること。」

― 《Cryos Codex I》



 アリエルの夜。

 青白い氷原の上に、光る影が立っていた。


 その形は人に似ていた。

 しかし人ではない。

 骨は氷、血は光、心は結晶の波。


 彼らは星を見上げる。

 その視線の先、遥か太陽系の内側には、

 かつて“名を与えた者たち”――人類がいた。


 氷の民は知っていた。

 名とは形であり、形とは記憶であり、

 記憶とは存在の最初の息であることを。


 そして、ゆっくりと一つの言葉を発した。


「われらもまた、名を持つべきだ。」


 氷上に新たな光が走り、

 アリエルの夜が明けた。


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