天王星の衛星アリエルから来ました ~蒼い星への旅~⑨
アリエルの極光が沈黙して久しい。
惑星の呼吸は再びゆるやかになり、氷殻の表層では静かな再凍結が進んでいた。
だが、氷のすべてが眠ったわけではなかった。
――氷の中で魚たちは、形を忘れぬ夢を見ていた。
その夢はやがて、芽吹きの形をとる。
*
アウラリスの子孫の一部は、浮遊をやめた。
磁気圏の変調により、電磁浮揚が不安定化した彼らは、氷上へと降り立つ。
そこには、かつての海が蒸散して凍りついた窪地――
硫黄とアンモニアの結晶が交じる湿原が広がっていた。
彼らは再び、物質を選び取る生命へと戻る。
氷を吸い、光を求め、身体を“定着”させる者が現れた。
その名は、クリオフロラ(Cryoflora arielis)。
根はアンモニア氷の結晶を貫き、
幹は導電性ゲル層を持つ。
葉にあたる部分では、オーロラ光を化学電位に変換する。
その反応式はこう推定される:
NH3+hν aurora→NH2+H+e−
この自由電子が内部の水素結合網を揺らし、微弱な熱を生じる。
クリオフロラはその熱を用いて、−180℃の環境で代謝を続けた。
彼らは植物でありながら、光ではなく磁気と電子を糧とする。
オーロラを食べて生きる“極光の森”。
それがアリエルの氷上に広がった。
*
クリオフロラの根の下、氷の割れ目に生まれた小さな群れ。
それは、アウラリスの変異体であり、足を得た魚だった。
彼らは氷上を滑り、やがて歩きはじめる。
足は四肢というより、結晶筋の束である。
1Kの温度差で0.5%伸縮する圧電線維を多数束ね、
周期的に収縮することで前進する。
歩行速度はわずか 2 mm/s。
しかし彼らにとって、動くとは“形を変える祈り”だった。
その表皮は半透明の結晶ゲルで覆われ、
体内にはフォルミアンの記憶格子が生きている。
彼らは氷上の亀裂の音を聴き取り、
結晶のひずみを読み、仲間と“振動言語”で語り合った。
それが、グラキア(Glacia)――氷を歩む民。
*
クリオフロラは光を集め、熱を与えた。
グラキアはその根の間を歩き、結晶を砕いて水を運んだ。
植物は動物に電荷を与え、動物は植物の結晶構造を拡散させる。
両者の境界では、微弱な電流が流れ、氷表面に薄い“導電皮膜”が形成される。
その皮膜は熱を保持し、周囲の温度を −190℃から −175℃へ上昇させた。
アリエルの氷原に、初めて季節的な循環が生じた。
氷の星に、気候が芽生えたのである。
*
数百万年が過ぎ、クリオフロラの森は惑星全体に広がった。
その発光は天王星の夜面からも観測されるほど強くなり、
オーロラと区別がつかなくなった。
氷上を歩くグラキアは、群れをなし、
表皮の結晶模様を変化させて互いを識別した。
模様は言葉、形は記憶。
氷原の上を移動するその行列は、
かつてのクリオポリスの街路配置を模していた。
つまり、氷上の生態圏そのものが、古代都市の記憶を再演していたのだ。
アリエルは再び、自己の形を思い出していた。




