370 【優しい午後4】
俺がエレベーターで下まで降りると、ちょうど入り口付近に立っていた刑事のひとりが、すぐにこちらに気づいて声をかけてきた。
「行かれますか?」
落ち着いた口調だったが、そこには気遣いが感じられた。
俺は足を止めて、軽く会釈しながら頭を下げる。
「すみません。少しだけ、出ます」
すると、そばにいたもう一人の刑事も顔を上げて微笑みながら言った。
「では私はこのままここで待機します。安心して行ってきてくださいね」
その一言に、なんとも言えない安堵感が心に広がる。警戒されていない、というより、信頼のようなものを少しだけ感じた。
「では、行ってきます」
俺は玄関を出て、一人の刑事と並んで歩き出した。空気はややひんやりとしていて、少し汗ばんだ額に心地よかった。
しばらく無言で歩いたあと、俺のほうから口を開いた。
「さっき、まいが言ってたんです。以前、差し入れしたことがあるって……」
すると、隣を歩いていた刑事がふと顔をこちらに向け、少し驚いた。
「……もしかして、高木さんって、橘さんのお友達だったんですか?」
その問いに、俺は一瞬言葉に詰まった。言っていいものか迷いがあったが、ここで嘘をつくのも違うと思った。
「ええ……高校のときの同級生なんです。昔から、何かと世話になってばかりで……」
そう言いながら、俺は苦笑いして頭をかいた。
すると刑事は、「ああ、やっぱり」と納得したようにうなずいた。
「実はですね。前に差し入れをいただいたとき、橘さんが“俺の友達の彼女が作ってくれたんだから、ちゃんと感謝しろよ”って、みんなに言ってたんですよ」
思い出すようにその表情は、どこか懐かしさを帯びていた。
「そのときのおにぎりが……本当に美味しかったんです。みんなであっという間に食べちゃって。あれは嬉しかったなあ」
俺はその話を初めて聞いて、思わず小さく笑ってしまった。
「……そんなことがあったんですね。まったく知らなかったです」
まいが作った何気ない差し入れが、こんなふうに人の記憶に残ってる。
それを思うと、何故か俺まで嬉しくなってきた。
スーパーに着くと
「すぐに用を済ませてきますから、ここで少しだけ待っていてください」
そう言って俺は足早に店内へと入った。
カゴにビール、ウイスキー、それに日本酒を手早く入れてレジを通り、急いで外へ出る。
刑事さんは俺の姿を見て、少し驚いたように笑った。
「そんなに慌てなくても良かったんですよ」
気遣うような、やわらかい声だった。
俺は少し息を整えてから、ふと思い立って尋ねてみた。
「刑事さん、俺の部屋でご飯を食べるっていうのは……可能なんですか?」
唐突な提案だったかもしれない。
刑事さんはほんの一瞬、きょとんとした顔をした後、少し困ったように笑った。
「……わかりません。前例がないから。それに、なんだか申し訳ないですよ。気にしないでください」
言葉とは裏腹に、刑事さんは少しだけ戸惑っているように見えた。
無理をさせているのかもしれない、でも。
「わかりました。じゃあ、俺に任せてください」
そう言ってから、俺はふとひらめいた。
いい案が、頭に浮かんだのだ。
純一に、直接電話してみるはっきりさせたほうがいいしな
そう思うと謙は、そばで見守っていた刑事たちに軽く会釈をしてから、自分の携帯を取り出した。
「刑事さん、ちょっとだけお待ちください。すぐに確認しますから」
携帯の画面を見つめながら、着信履歴から純一の番号を選び、通話ボタンを押す。数回のコールのあと、純一が出た。
『……もしもし、謙?どうした、何かあったのか?』
「いや、そうじゃないんだ。大したことじゃない。実はさ、今そっちから来てくれてる刑事さんたちが、警備のために家の前にいてくれてるんだ。だから、家に上がってもらって、一緒に食事でもどうかと思って」
少し間が空いてから、純一の声が戻ってきた。
『謙、それはさすがに……申し訳ないよ。刑事にそんなこと……』
「別に問題ないんだよな? 上がってもらっても」
『まぁ……法律上は問題ないけどさ。でも、まいちゃんにまで気を遣わせることになるだろ?あんまり無理させたくないし……』
謙は小さくため息をついた。そして迷うことなく言い切った。
「問題なしなら決定な。もうそうするって決めた。まいなら、きっと気にしない。あいつ、誰かのために動くのが好きなやつだからさ」
『謙……』
「あとでまた連絡する。とりあえず電話切るわ」
そう言って、謙は通話を切った。
通話が切れてしばらく沈黙が続いた。
その静けさのあと、純一がぽつりと呟いた。
「…… やっぱり、謙。そういうところ、昔から変わらないなぁ〜」
その声にはどこか安堵と、そして少しだけ嬉しさが混じった優しさがあった。




