366 【まいと香のやさしい連鎖2】
「今日はどうするの?」
香の問いかけに、純一はソファから立ち上がりながら答えた。
「一度署に戻って、それからまたすぐこっちに来るよ。だから、そんなに長くはかからないと思う。」
香はゆっくりと頷きながら、キッチンカウンターのマグカップを手に取る。
「そっか。私は特に予定ないよ。まいちゃんも謙さんの所だし今日は家にいるつもり。」
その言葉を聞いた純一は、香のほうへと顔を向けて、少し優しい声で言った。
「香、ほんとにありがとうな。……まいちゃんのこと、色々と助けてくれて。」
香は少し驚いたように目で、ふっと笑って首を振った。
「気にしないでよ。むしろ、まいちゃんが来てくれてから、私のほうが助けられてる気がするの。なんかね……あの子、妹みたいで。ほっとけないし、すごく可愛くて。」
そう言って笑う香はどこか嬉しそうで、どこか寂しげでもあった。
「……それに、最近ね。純一、私のこと、あんまり構ってくれないし。」
香はわざと冗談っぽく言いながら、そっと純一の目を見つめる。
その一言に、純一は少し照れたように目をそらしながら言った。
「そんなことないよ。いつも香に会いたいと思ってる。……昨夜みたいなことだって、本当は毎晩でも、したいくらいだよ。」
その言葉に香の頬がぱっと赤く染まり、彼女は思わず目を伏せて笑った。
「ばーか……そんな恥ずかしいこと、さらっと言わないでよ……」
純一も気まずそうに笑って、頭をポリポリとかいた。
「じゃあ、また戻ってくるから。そのとき、何か予定でも考えておいて。」
「うん、わかった。」
香はうなずきながら、ほんの少し名残惜しそうな目を向けた。
「じゃあ、行ってくる。」
そう言って純一が玄関のドアに手をかけた、そのとき――
「純一」
突然呼び止められて振り返ると、香がすっと近づいてきて、何も言わずに彼の唇に自分の唇を重ねた。
優しく、静かに――まるで想いをそっと渡すように。
少しだけ長いキス、その温度と気持ちは、まっすぐに伝わっているようだった。
少しして香がゆっくりと唇を離すと、その顔はほんのりと赤く染まり、恥ずかしそうにうつむきながら小さく言った。
「……なんか、キスしたくなっちゃった。」
純一はその言葉に、口元をほころばせて優しく微笑んだ。
「そっか……」
そう呟いたあと、今度は純一の方から香に近づき、今度はほんの軽く、けれど気持ちを込めてキスを返した。
「行ってくる。」
その言葉を残して、純一は再びドアを開け、外へと出ていった。
静かになった玄関に、香はしばらく立ち尽くしたまま、唇に残るぬくもりを指先でそっとなぞっていた。
部屋に戻ると、香はゆっくりとソファに腰を下ろした。
外に出た純一の気配が遠のくにつれ、部屋の中にはふっと静けさが戻ってきた。
何気なく見上げた天井。そのまま目を閉じて深く息を吐くと、自分の胸の内にふと気づいた。
「……私、まいちゃんに影響されてるなぁ……」
小さな声でそう呟きながら、香は思わず口元に手を添えて微笑んだ。
最近の自分の変化が、少し照れくさい。でも、嫌な感じじゃなかった。
もちろん、純一のことは大切に思っている。心から愛してる。
それは間違いない。だけど――
「……もしかしたら、私はどこかでずっと、純一に遠慮してたのかもしれない。」
そう思った瞬間、胸の奥に小さな棘のような感情がひっかかった。
彼が年下だから。
大人の女性として、しっかりしていなきゃって――
だから、甘えることも、素直になることも、どこかで無意識に避けてたのかもしれない。
「純一は、そんなふうに思ってなんかいないと思うけど……」
けれど、心のどこかで「年上の私」が、彼にとって重荷になってはいないか。
そう思うたび、知らず知らずのうちに自分を抑えていたのかもしれない。
――さっき、自分からキスをした。
あんなこと、今までなかった。香にとって、それはほとんど“初めて”と言えるほどに勇気のいることだった。
驚いたような純一の目。
でも、すぐに彼は笑ってくれた。その顔が頭に浮かぶだけで、胸の奥がぽっと温かくなる。
「……これでよかったんだよね、まいちゃん。」
香はふっと笑って、カーテンの隙間から見える外の景色に目を向けた。
午後の柔らかな光が、窓から静かに差し込んでいる。
まいちゃんは、いつもまっすぐだった。
自分の想いに正直で、どんなに不安でも、誰かを想う気持ちを真っ直ぐに伝えようとする子。
そんな彼女を見ているうちに、自分も少しずつ変わってきたのかもしれない。
「……素直になるって、悪くないね。」
香は小さくつぶやいた。
いま、自分の中に流れているこの穏やかな感情を、大切にしたいと思った。
誰かに愛されること――
それはきっと、自分のままを受け入れてもらうこと。
だから、取り繕わなくていい。遠慮しなくていい。ただ、愛したいと思った時に、愛を伝えればいい。
そう教えてくれたのは、あの小さな笑顔で頑張っていた、まいだった。
「ありがとう、まいちゃん……」
そっと、心の中で感謝を伝えながら、香は窓の外を見つめ続けた。
その瞳には、どこか柔らかく、晴れやかな色が宿っていた……




