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364 【自然体】


食事を終えたあと、まいはキッチンで静かに食器を洗っていた。

その背後では、ダイニングの椅子に腰掛けた謙が、何かをじっと考え込むような仕草で腕を組んでいた。


まいはチラリと振り返って、その様子に気づく。

(あれ……謙、どうしたんだろう)

皿を拭きながら、ふと不安が胸をよぎる。

(もしかして……事件のこと、まだ引っかかってるのかな……)


洗い物を終え、手を拭きながら謙に声をかけた。

「謙? どうしたの? なんか珍しく真剣な顔してるけど」


謙はふと我に返るように顔を上げると、ちょっと照れくさそうに言った。

「うーん……いや、なんかさ、やっぱり違うんだよね」


「何が違うの?」


「この部屋の飾り具合というか、雰囲気というか……」


その答えを聞いて、まいは思わず小さく吹き出した。

(なあんだ……事件のことじゃなかったんだ)

「えっ、謙、もしかしてずっとそのこと考えてたの?」


謙は真面目な顔でうなずいた。

「うん。まいが戻ってきて、日常がちょっとずつ戻ってきた感じするんだけど……でも、なんか部屋だけがまだ途中っていうか、ピンと来なくてさ。なんだろう、やっぱりまいがいた頃と違うんだよなあって」


まいはキッチンカウンターに肘をつきながら、優しい笑顔を浮かべた。

「ふふっ、そんなの大丈夫。私が元どおりにしてあげるから。ちゃんと“まい仕様”に戻してあげるよ」


「俺も手伝うよ」


「いーのいーの、謙には無理だから」

まいは手を軽く振って断った。


「なんでよ? 意外とセンスあるかもよ〜?」


「……ううん、大丈夫。そこは全然期待してないから」

そう言いながら、まいの頬が緩み、笑いをこらえるように口元を押さえた。


「まい……それ、なんかひどくない?真剣に考えてるのに……」


「気にしない、気にしない!」


まいもキッチンからリビングに来て部屋を見渡して、微笑みながら軽く頷いた。


「今日中には綺麗になるからね、謙……」


そんなやりとりに、部屋の空気がやわらかくほどけていく。

まるで、長く止まっていた時計が静かに動き始めたようだった。





「さあ〜て、始めようかなぁ〜」


まいは両手を軽く伸ばし、気合いを入れるように深呼吸した。

そしてちらりと謙を見て、いたずらっぽく笑いながら指をさす。


「謙は、そっちの隅にいてね。邪魔だから」


わざとおどけた口調で、まるで子どもを追い払うように軽く手を振る。

その様子に謙も苦笑いを浮かべながら、肩をすくめて言った。


「なんかさ、まい……前より強くなってない? 逆らう勇気が出てこないんだけど……」


まいはその言葉に、思わずふっと微笑んだ。

「私はね、謙が喜んでくれるかなぁって思って頑張ろうとしてるんだから。だから、謙は邪魔しない! はい、そっち行ってて!」


そう言って、少しだけ語気を強めて手で追いやる仕草をする。

でも、その顔にはどこか愛しさが滲んでいた。


謙は軽く笑いながら言われたとおりにソファへ移動し、その背中を見送りながら、まいはふと立ち止まった。

頭の中に、かつての自分が浮かんでくる。


(昔の私だったら、こんなふうに謙に指示したり、強く言ったりなんてできなかったなぁ……)

(いつも遠慮して、気を遣って、言いたいことも飲み込んでた。嫌われたくなくて、顔色ばかり気にして……)

(でも結局、何もできなかった。ただ一緒にいるだけで、精一杯で)


そんな自分が、今はこうして“愛されたい”って、ちゃんと思えるようになってる。

変に遠慮するんじゃなくて、ありのままの自分で向き合いたいと願ってる。

一緒にいられることの尊さを、心から知ったからこそ、大切にしたいと思える。


(謙といられるこの時間が、こんなにもあたたかいんだって、やっとわかったんだ)

(だから、もう気を遣ったりしない。もう、隠れない)


ぽかぽかと胸の奥に広がってくる幸福感に包まれて、まいの口元が自然と緩んだ。

ふと我に返ると、謙の声が背後から飛んできた。


「まい? どうしたの? なんかぼーっとしてるし……っていうか、ニヤニヤしてるけど?」


まいは慌てて振り向き、目を見開いて言い訳をする。


「え、えぇっ? な、なんでもないよっ! いいからっ、もぉ〜〜……早くそっち行ってて!」


頬を赤らめながら、またもや謙を追い払うように手を振る。

その仕草は照れくさそうで、それでいてどこか幸せそうでもあった。


謙とまいの間に流れる空気は、穏やかで優しくて、

まるで“ありのままの2人”を、そっと肯定してくれているかのようだった。




「まい、じゃあ俺、買い出しに行ってこようか?」


部屋の隅で立ち尽くしていた謙が、そう声をかけたのは、まいが真剣な顔で片づけに取り掛かっているのを見て、邪魔にならないようにと思ったからだった。


まいは、棚の上の飾りやクッションの配置をひとつひとつ確認しながら、前の状態に少しでも近づけようと一生懸命になっている。その姿を見ていると、謙は自分がそこに立っていることさえも少し申し訳なく感じていた。


「うーん……そうしたらお願いしようかなぁ」

まいは少し考えてから、手を止めて笑った。

「その方が確かに助かるし、なにより……邪魔にならないしね?」


「うわ、そこ強調する?」


謙は肩をすくめながら苦笑いした。まいの冗談まじりの一言に、自然と2人の間に笑いがこぼれる。こういう遠慮のないやりとりが、今ではすっかり心地よくなっていた。


まいはすぐに気を取り直して、キッチンの冷蔵庫まで歩き、扉を開けて中をチェックし始めた。

在庫を確認しながら、小さな紙に買ってきてほしいものを書き込んでいく。

手際よく、でもどこか楽しそうにリストを作っているその姿に、謙は少し見とれていた。


「よし、こんなもんかな……謙、これお願いね」


紙を手渡しながら、まいが軽く釘を刺すように言った。


「無駄なものは買わなくていいからね? 分かった? 謙」


「はいはい、まい様のご命令、しかと承りました」

謙はおどけた声で答えながら、受け取ったメモを胸ポケットにしまった。


「うん、その調子。じゃ、よろしくね」


謙はジーンズを穿き、シャツのボタンを留めながらリュックを背負う。

外出の支度といっても、そんなに時間はかからない。


「じゃあ、行ってくるよ。鍵とチェーンはちゃんとしておいてね」


「うん、気をつけてね」


まいは手を止めて玄関まで来てくれた。

謙が外に出たあと、扉の内側から鍵の閉まる音、そしてチェーンをかける金属音がカチャリと響いた。


その何気ない音が、2人のささやかな暮らしの中で、静かに“安心”を刻んでいた。


エレベーターを降りて建物の外に出た瞬間、二人の男性がこちらに歩み寄ってきた。

黒いジャケットに無線のイヤホン――すぐに警察関係者だとわかった。


「お出かけですか?」

一人の男性がやわらかい口調で問いかけてくる。


「はい。そこのスーパーまで、少し買い物に」と俺が答えると、彼らは互いに目を交わし、


「では、私たちもご一緒します」と言った。


ただの買い物にしては大げさすぎるなと思いながら、俺は少しだけ遠慮がちに尋ねてみた。


「あの……もし大丈夫でしたら、お一人だけ残っていただけますか?」


彼らは「え?」と意外そうな表情を浮かべた。予想外の申し出だったのだろう。

俺はすぐに理由を伝える。


「部屋には連れがいます。まいがひとりでいるので……念のため、誰かにそばにいてもらえると安心なんです」


言葉を聞いた瞬間、彼らの表情がやわらいだ。


「なるほど、それでしたら問題ありません」

一人が優しくうなずくと、もう一人が優しく言ってくれた。


「じゃあ、私がここで待機してます。どうぞ、安心して行ってきてください」


その穏やかな声に、俺は小さく頭を下げた。


警戒と配慮が静かに交差するそのやりとりは、日常に潜む緊張感を、少しだけやわらげてくれた。

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