第4章「影に潜む真実」 362 【全ての始まり】
ご挨拶
皆さま、お久しぶりです。茅ヶ崎渚です。
まずは、この度は約二ヶ月という長い間、続きをお待たせしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。お待ちいただいた皆さまのお気持ちを思うと、感謝の気持ちと同時に胸がいっぱいになります。
物語を紡ぐ中で、私自身がすっかり謙とまいの二人に惹かれてしまい、「もっと二人の時間を描いてみたい」「もっと深く彼らの想いを伝えたい」と思うようになりました。そうした気持ちが自然と膨らんでいき、結果として続編という形をとらさせて頂きました。
また、今回は謙とまいの愛の物語だけではなく、新たな人間模様やラブロマンスも織り交ぜてみました。お読みくださる皆さまに、少しでも「ときめき」や「切なさ」、そして「温もり」を感じていただけたら、とても幸せに思います。
『消えた記憶と愛する人の嘘 2』
いよいよ始まります。
この物語が、読んでくださる皆さまの心にやさしく残るような作品になれることを願っております。どうか最後まで見届けていただければ、作者としてこれ以上の喜びはありません。
それでは――
引き続き、謙とまいの物語をどうぞよろしくお願いいたします。
茅ヶ崎 渚
純一が足を踏み入れたその部屋は、“資料室”というにはあまりに異質だった。
部屋全体を覆うのは、無機質で冷たいコンクリートの壁と床。
蛍光灯は壊れて垂れ下がり、壁も壊れていて穴まで開いてある
鉄の扉の先に広がっていたのは、書棚もファイルも見当たらない、がらんとした廃墟の様な空間だった。
まるで誰かの記憶からも抜け落ちたような、忘れられた場所。
空気はひんやりと重く、蛍光灯が数本だけ天井に取り付けられているものの、
その光は頼りなく、部屋の隅はほとんど影に沈んでいた。
「……ここだったのかもしれない」
謙が以前、“倉庫”と言っていた場所。
もしかしたら、あれはこの部屋のことだったのかもしれない。
そう思うと、背筋にかすかなざわめきが走った。
この場所なら、誰にも邪魔されずに人と会うことができる。
勤務時間が終わった後に、秘密の話し合いをするにはうってつけの場所だ。
そしてもし、言い争いがヒートアップして取っ組み合いになったとしても、
この分厚いコンクリートの壁が外への音を遮断してしまうだろう。
たとえ怒鳴り声が響いたとしても、ここが地下である以上、
地上の誰にも届かない可能性が高い。
人の気配はない。
ここに頻繁に出入りする者はいないのだろう。
掃除の痕跡もなければ、使用されている様子も感じられない。
ただこの場所に奴が隠れていた気配だけがそこには漂っていた。
純一は立ち止まったまま、しばらく周囲を見渡していた。
この空間で、一体どんな会話が交わされ、どんな出来事があったのか。
──すべては、ここから始まったのかもしれない。
純一は足元にしみ込むような冷たい空気を感じながら、ポケットから携帯電話を取り出した。
無機質なコンクリートに囲まれたこの地下室の様子を、数枚の写真に収めていく。
謙に見せて、何か思い当たることがあるか確認するためだった。
レンズ越しに見える殺風景な空間は、資料室というにはあまりにも荒涼としていて、どこか人の気配を拒むような空気すら感じさせた。
撮影を終えて、純一はその場で写真を送信しようとした。
だが、ふと画面の上部に目をやり、思わず足を止めた。
「……圏外か。」
通信状態を示すアンテナは、まっさらな空白を映し出していた。
この空間が、地上から完全に遮断された“閉鎖された場所”であることを、無言のまま突きつけてくるようだった。
純一は眉をひそめながら、携帯を手にしたまま、部屋の中を歩き始めた。
電波の届く場所はないかと、壁際や出入口、照明の下などを試すように移動し、慎重に画面を確認していく。
やがて、純一は一つの場所に辿り着いた。
部屋の奥、換気口のような小さな窓が高い位置に開いている。
奴が以前、拳銃を撃ったとされるその窓の下――そこで、画面に微かにアンテナの表示が浮かび上がった。
「……ここだけ、通じる。」
その範囲は極めて狭く、窓を中心に半径2メートルほど。
だが確かに、そこだけが地下の静寂を破るように、わずかに外界と繋がっていた。
純一の脳裏に、ある可能性が浮かんだ。
「――奴は、ここで通信していたのかもしれない。」
ここだけが、外と連絡を取ることができる唯一の場所。
奴はそれを知っていて、用意周到にメールを送るときだけこの位置に立っていたのではないか。
拳銃を撃ったのも、ただの威嚇ではなく、ここからなら簡単に狙い撃ち出来る窓の位置を利用する事も計算していたんだろう
そう考えると、この地下室は単なる隠れ場所ではなく、意図的に選ばれた“連絡拠点”でもあった可能性が濃くなる。
外から遮断され、誰にも気づかれずに潜伏できる密室。
そして、その中で唯一外と繋がる小さな窓。
純一は、静まり返った地下室にただ一人、携帯を手にしたまま、重苦しい沈黙の中に立ち尽くしていた。
静まり返った部屋の中には、誰の声も残っていない。
けれど確かに、何かがここで起きた。
そして今もなお、奴の呪縛だけが、この部屋の中に漂っている様な気がした。
純一は重たい扉を押し開け、地下室から地上へと戻った。
冷たく湿った空気に包まれていた地下とは打って変わって、1階のフロアにはどこか穏やかな空気が漂っていた。
光も空気も、こんなに違うのか——そう素直に感じていた
「あんな場所に、何日も潜んでいたのか……誰だって腐るなぁ……」
無意識に呟き、純一はエントランスホールへと歩を進めた。
そこへ、少し息を切らした篤志が慌てて駆け寄ってきた。
「橘さん、どこ行ってたんですか? 電話しても電波届かないって言ってましたから心配しましたよ。突然いなくなるんですもん」
その言葉に、純一は小さく頷いた。
「すまん。地下室を少し見てたんだ」
「……何か、ありましたか?」
篤志の問いに、純一はほんの一瞬だけ目を伏せ、それから静かに首を横に振った。
「いいや。何もなかった。ただ、妙に静かなだけだった」
言葉に含ませた違和感を、篤志がどれだけ感じ取ったかはわからない。
だが彼は気を取り直したように背筋を伸ばし、少し明るい声で報告を続けた。
「現場はもう片付きました。鑑識も全員引き上げて、残ってるのは僕たちだけです」
「そうか……」
純一は一度だけ深く息を吸って、視線をエントランスの外に向けた。
「……じゃあ、俺たちも戻るか」
一見穏やかなやりとりのなかに、地下室に残された空気と違和感は、まだ心のどこかにまとわりついていた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
俺たちはベッドの中で、薄暗い明かりに包まれながら、これからのことを話していた。
まるで世界のすべてが一時的に静止しているような、静かで温かな時間だった。
「謙、これからどうするの?」
まいが小さな声でそう聞いてきた。
彼女の瞳は真っすぐで、けれどどこか不安そうに揺れている。
「とりあえず、明日と明後日は休みだからさ。……こうして、2人でのんびり過ごそう」
俺がそう言うと、まいの顔が嬉しそうな顔に変わっていった。
それから安心したように俺の胸にしがみついてくる。彼女の柔らかな髪が肌にふれて、くすぐったいような、でも心から落ち着く感覚が広がった。
しばらくそのまま静かに寄り添っていたときだった。
「……謙、ちょっと起きて」
突然、まいが顔を上げて、少し真剣な声で言った。
俺は驚いて上体を起こしながら、「どうした?」と尋ねた。
「謙……右腕、見せて」
彼女は不安そうな目で俺の腕を見つめている。
俺はすぐに理解して、そっと右腕をまいの前に差し出した。
「昨日、抜糸したんだよ。もう痛くないし、ちゃんと治ってきてる。心配いらない」
そう優しく伝えると、まいは何も言わずに俺の右腕を両手で包み込んだ。
そのまま、傷跡に頬をそっとあてがう。まるで、彼女自身の温もりで癒そうとしているようだった。
しばらくそうしてから、まいは小さな声で「……よかった……」と呟いた。
その声には、安堵と、胸の奥にずっとまいが抱えていた想いがこもっていた。
彼女の頬から伝わるぬくもりが、じんわりと腕に沁みる。
俺はただ静かに、まいの髪に手を添えて、そっと撫でた。
この優しさを、もう二度と手放したくないと、そう思った。
そんな優しさに満ちたまいを見ていたら、気持ちが溢れて、俺はたまらず彼女をもう一度ぎゅっと抱きしめた。
――もう、何も怖くない。
ただ、この腕の中にまいがいることが、こんなにも安心で、こんなにも嬉しい。
気づけば力が入りすぎていたのだろう。
「……謙…く、苦しいよ〜……」
まいが小さく笑いながら、肩を軽く叩いた。
俺はすぐに我に返って、驚いて腕の力を緩める。
「ご、ごめん、ごめん!痛くなかった?」
焦りながら謝る俺に、まいは少しむくれた顔をして、でもすぐに笑って
そして、どこか安心したように、いつものあの言葉を口にした。
「もぉ〜……だから謙なんだからぁ〜」
その一言を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりとした。
どんなときも、まいはこの台詞で俺を笑わせてくれた。
怒ってるときも、泣きたいときも――そして、今日みたいな特別な夜も。
俺はまいのその「決まり文句」が、たまらなく愛しく思えた。
どこかくすぐったくて、でも、今まで以上に心に沁みてくる。
まるで、2人の関係が本当に戻ってきた証みたいで。
俺はもう一度、今度は優しくまいを抱きしめた。
何も言わず、ただ、彼女の体温を確かめるように。
この“いつもの”やりとりが、ずっと続けばいい。
心から、そう願っていた。




