84.闇との遭遇(2/2)
威厳あるローブを羽織った若者――錬金術師エノクは微笑を浮かべたまま順番に俺達を見やり、更に笑みを深めた。
「タルボットの独走には毎回困らされてきたけど、今回ばかりは感謝しないとね。君だけじゃなくて、冒険者ギルドの特務捜査員まで捕らえられるなんて想定外の収穫だ」
「特務捜……なんだって?」
「何も聞かされていないなら、後でゆっくりと聞くがいい。そのための時間は存分に用意してあげるよ」
エノクの足元に広がっていた影が鎌首をもたげ、何本もの鞭のように襲い掛かってくる。余計なことを考えている暇なんて一秒もない。俺とクリスは影による攻撃を全力で迎え討った。
どういう理屈の攻撃なのかは分からないが、刃は影に触れられるし、反撃を加えて弾き飛ばすこともできた。絶え間なく双剣を振るい、細剣を繰り出して、無数の攻撃を凌ぎ続ける。
この場から離脱するにしても、エノクを斬り伏せにかかるにしても、影による攻撃をかい潜るチャンスを掴む必要がある。今はまだその糸口すら見いだせていない状況だ。
「カイ! 下だ!」
突然、ヴァンが大きな声で叫んだ。
反射的に視線を落とすと、エノクの足元の黒い影が通路の幅いっぱいに広がって、俺達めがけて猛スピードで伸び広がってくるところだった。
「くそっ……!」
タルボットもディーも黒い影に飲み込まれることでどこかに連れて行かれた。これがそのときの影と同じなら、安易に触れるのは非常にまずい。
俺とクリスは影が足元に達する寸前に跳躍したが、影はあっという間に直線通路の床全体を覆い尽くしてしまった。これではどうあがいても着地のときに影を踏んでしまう。
――が、問題はその程度では収まらなかった。
影が床に染み込んだかと思うと、まるで水に溶ける綿菓子のように床が形を失い、床のあったところに何もない空間がぽっかりと口を開けた。
黒い影に触れた床そのものがどこかに飛ばされたのだ。
「はぁ――!?」
全ては一瞬の出来事だった。着地すべき先を失った俺とクリスも、立っていた場所を失ったヴァンも、自然の摂理のまま穴の底へと落ちていく。
「きちんと落ちれば死にはしない。迎えを寄越すまで大人しく待っていてくれ」
「この、野郎……!」
俺は落下しながら空中で姿勢を整えて、穴の縁に立つエノクに双剣の片割れを投げつけた。
帯状の影が当たり前のように剣を防ぎ止める。
直後、時間差で投げたもう一振りの片割れがエノクの肩口を斬り裂いた。
「ぐっ……!」
「タダでやられるとでも思ったか?」
苦痛を浮かべたエノクの顔がどんどん遠ざかっていく。
残念ながら反撃はここまでだ。双剣の実体化を解除して回収し、《軽業》スキルを駆使して着地に備える。
一秒後、俺は勢い良く落水した。
「――ぷはっ!」
凍えるような冷水だ。一秒でも早く上がらないと身体が動かなくなりそうだ。
コピーした《暗視》で岸を探し、まっすぐそこまで泳いでいく。
「くそっ、なんて奴だ」
岸に上がって周囲の状況を確認する。
地底湖と呼ぶには小さな池を岸が円環状に取り巻いている。落ちてきた穴は既に封鎖され、一片の光も差し込んで来ない。外に出る手段があるとすれば、一箇所だけ設けられた見るからに分厚い金属の扉だけだ。
少し離れた岸にクリスが這い上がるのが見えた。ヴァンは無事だろうかと思って探していると、必死にもがく水音が聞こえてきた。
「……けほっ! 駄目、溺れ……!」
「っておい! 大丈夫か!」
再び水の中に戻って溺れる寸前のヴァンを助け出す。服が水を吸って重くなっている上、必死になったヴァンにしがみつかれて泳ぎにくくて難儀したが、どうにかクリスがいる岸まで泳ぎ切ることができた。
水難救助は二次災害の危険が高いと聞いたことがある。《ステータスアップ》で身体能力が底上げされていなかったら危うかったかもしれない。
「ご、ごめん……けほっ……」
「そういや、この辺りって泳げない奴多かったな……内陸だからか?」
帝国の東方領域は海に面していないため、水泳とは一生無縁の人間が多い。大きな川や池か湖が近くにない限り泳ぐ場所そのものがなく、あったとしてもわざわざ泳ぎを練習する奴は少数派だ。
実のところカイもまともに泳いだことがない。さっきみたいにきちんと泳ぐことができたのは、カイ・アデルではなく新堂海の経験のおかげである。
「しかし、こんなに真っ暗だとどうしようもないね。カイは《暗視》が使えるから大丈夫なんだろうけど」
「二人ともここで待っててくれ。何か燃やせるものがないか探してくる」
そう言って俺はこの地下空間を壁沿いに調べ始めた。
この暗闇でモノが見えるのは俺だけだというのもあるが、それ以前にあの場所には居辛かった。真っ暗闇でも視覚が働くせいで、水に濡れた服を絞るクリス達の姿がハッキリと見えてしまうからだ。
役得だと思わなかったと言えば嘘になるが、いつまでもそうしているのは流石に自己嫌悪を感じてしまう。下心を満たすよりも暖を取る手段を探して歩き回る方が有益だ。
「……ああ、そうだ。いちおう明かりは付けとくから、必要なら使ってくれ」
「助かるよ」
俺は一旦《暗視》のコピーを止めて《ライト》のスペルに切り替えた。
スペルを唱えると、手の平大の光の球が現れて半径数メートルを照らし上げた。冒険者ギルドのショップで目にしたレアリティの低いスペルだ。ランタンの方が明るいので油代の節約と荷物の軽量化くらいにしかならないが、こういう非常時にはとても便利だ。
「《暗視》に《ライト》に双剣にでかい盾に、それに《ヒーリング》……何でもできるんだな、そのカード。お前、ひょっとして凄い冒険者なのか?」
「他人よりツイてただけだよ」
ヴァンは《ワイルドカード》の切り替えを見て驚いているようだった。タルボットとの戦闘中にも何度か見られていたので、ヴァンも『あのカードが特別なのだ』と既に理解している。
一度スペルを発動させてしまえば、《ワイルドカード》を別のカードに変えても効果は継続する。俺は再度《暗視》をコピーして探索を再開した。
ここが自然の洞窟なら暖まる手段を見つけるのは絶望的だが、幸いにもそうではない。分厚い金属の扉が設置されているのを見る限り、ここは地下洞窟に人の手が加わった牢獄に違いない。
それに、あの手口で殺すつもりなら、池を埋め立てるなりして落下死させれば手っ取り早いのだ。落水して溺死……はしょうがないとして、ゆっくり時間を掛けて凍死させるなんて無駄が多すぎる。
「殺すんじゃなくてわざわざ放り込んだってことは、生き長らえさせるための仕込みがあってもおかしくは……っと」
俺は壁際に積み上げられていた『それ』を手に取って、小さく笑った。
「あっても毛布や藁の束くらいかと思ってたけど、随分と親切じゃないか。よほど俺達を生かしておきたいんだな」
それは俺の胸の高さまで積み上げられた薪の山だった。ご丁寧にも火口に使えそうな乾いた木屑と火打ち石まで用意してある。
「親切すぎて涙が出てくるね」
エノクに対する皮肉をこぼしながら、俺は必要なもの一式を持って二人のところに戻った。
奴がどうして手間隙かけてまで俺達を生け捕りにしたのかは分からない。そんなことを考えるよりも、目の前の問題に対処する方がずっと重要だった。




