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69.ヘルメス・トリスメギストス

 そうして『クルーシブル』の依頼に協力することは決まったものの、決行の準備がまだ完了していないということで、俺達四人はもうしばらく屋内で待機しておくことになった。


「はい、どうぞ。今のうちに水分を補給しておいた方がいいですよ」

「ありがとうございます」


 プリムローズが持ってきてくれた水で喉を潤す。宿を逃げ出して以来の水分補給だ。時間的にはあまり経過していないはずだが、疲労や緊張のせいでやたらと喉が渇いている。


 それにしてもプリムローズは不思議な雰囲気のヒトだ。見た目は毛並みのいい大型犬に限りなく近いが、服装や立ち振舞いが上品さを(かも)し出している。


「リーダー達が作戦の最終調整中だから、後三十分もすればあなた達にも作戦内容を説明できると思うわ。何か情報があれば今のうちに教えてちょうだい」

「情報……そうだ、これを伝えておかないと。俺達が会った『エノク』は影武者の可能性が高いみたいなんです」

「影武者? 本人ではなかったのね」

「はい。この前の依頼のときも、さっき面会したときもそうでした。物的証拠は何もないんですけど……」


 あの自称エノクが本物でないと気付けたのは、クリスの《真偽判定》スキルのおかげである。当然ながら他人に提示できる証拠は何もない。それでもプリムローズは興味深そうに頷いていた。


「貴重な情報だわ。ありがとうね」

「あっ、あの!」


 エステルが意を決したように声を上げた。


「その影武者のこと、私、知ってるかもしれません」

「ええっ!?」


 驚いたのはプリムローズだけじゃない。俺達も同じように驚かされた。それくらいにエステルの発言は予想外だった。


「ディー。私が見たときはそう名乗っていました。グロウスター卿に伝手(つて)があると偽って、とある領主から莫大(ばくだい)なお金を騙し取った詐欺師です」

「……! エステル、それってまさか!」

「ごめんなさい……言い出す機会が見つからなくて……」


 面会のときに感じた違和感がようやく解消された。エステルが睨んでいたのはグロウスター卿ではなくエノクの影武者の方だったのだ。


 相手が大した反応を見せていなかったことから考えると、あちらはエステルの顔を覚えていないか、そもそも顔を見たことがなかったのだろう。


 ターゲットにされたのはあくまでエステルの親なのだから、子供の顔を覚えていなかったり、見たことがなかったとしても不思議はない。かく言う(おれ)もそうだった。両親が話しているところを覗き見して相手の顔を見たことはあるが、直接顔を合わせたことは一度もない。


「分かったわ。ストイシャには私から伝えておくから」


 プリムローズが部屋を出ていこうとしたタイミングで、ローブを被った少女が部屋に入ろうとしてくる。二人はぶつかりそうになったことをお互いに謝り合ってから、自然な流れで立ち位置を入れ替えた。


 入れ替わりで入ってきたのは、依頼主の錬金術師兄妹の妹だった。


「あなたは、えっと……」

「ミシェル・キャロルです。何か知りたいことや、分からないことがあるようならお教えするように、兄から言われてきました」


 そういえば、さっき事情を聞いたときは兄のジャックばかりが喋っていたので、妹の方の声を聴くのはこれが初めてな気がする。


「分からないこと……それなら、エノクの目的が何なのかとか、そういうのは調べがついているんですか」

「証拠はありませんが推測はできます。全ての錬金術師の本懐を果たすこと――これで間違いないでしょう」

「錬金術師の本懐?」

「それって金の錬成?」


 俺もレオナと同じことを思ったが、ミシェルは微笑んだまま首を横に振った。


「古来、錬金術師は『人間を完全な存在に昇華すること』を目標にしてきました」


 ミシェルが語る説明は、俺にとって全くの初耳だった。新藤海としてもカイ・アデルとしても聞いたことがない。


 錬金術師はあらゆるものに『完全な状態』があると考えてきた。この考えで言うと、金属の場合は最も安定した金属である『金』が完全に近い金属で、鉛などの卑金属は『完全ではない状態』ということになる。


 金を錬成するのは『不完全な金属である卑金属を完全に近い金属である黄金に作り変える』行為に他ならない。


 そして、ありとあらゆる存在を完全にする触媒――仮説上の存在であるそれを、錬金術師は『賢者の石』……あるいは『エリクシール』と呼んでいるという。金の錬成はそれの製法を編み出すための実験手段に過ぎないのだ。


「もちろん、金の錬成そのものが目的になってしまった錬金術師が多数いたことは否定できませんけれど」

「つまり、エノクも金を作って賢者の石を作ろうとしているってこと?」

「いえ、事情はもう少し複雑なんです。実は金の錬成自体は遥か昔に成功しているんです」


 これも今まで知らなかった事実だった。俺が田舎者なせいかと思ったが、エステルとクリスも同じように驚いている。


「かつて伝説的な錬金術師が存在しました。かの人物はあらゆる祝福の中で最高峰のカード……レジェンドレアのスキル《ヘルメス・トリスメギストス》を持ち、自身もカードと同じく『ヘルメス』と名乗って、一代にして錬金術の秘奥を極め尽くしたと伝えられています」


 ヘルメスは黄金の錬成にあっさりと成功して、黄金の錬成を果たしただけでは人間を完全な存在に変える手段の発見には至れず、より高度で深遠な研究が必要であると証明した。


 そして彼は様々な分野の研究を繰り返し、やがて『私は成し遂げた』という言葉を残して地上から姿を消したという。多くの錬金術師は、ヘルメスが何らかの手段で自身を完全な存在に変えて地上を去ったのだと信じているそうだ。


「ヘルメス以後の錬金術師は、昔からの考えに囚われず思い思いの方法で『完全な人間』を追い求めています。新たな手段で賢者の石を生み出そうとする者、金の錬成という古風な研究を発展させようとする者、そして賢者の石に頼らない手段を模索する者――」

「――だから、エノクの最終目的は見当が付くけど、それに至る過程や直近の目的はまるで分からない、と」


 俺の推察をミシェルは頷いて肯定した。


 それにしても、まさか《ワイルドカード》以外のレジェンドレアの存在を耳にするなんて。ミシェルの話の中で一番驚いたところかもしれない。


 もちろん《ワイルドカード》が唯一無二のレジェンドレアだと思い込んでいたわけではない。理論上は同じ時代に複数人いてもおかしくないわけだし、歴史上の所有者となれば更に数が増えて当然だ。


「トリス……ねぇ、カイ。これって偶然かな」


 レオナが小声で(ささや)きながら、俺の服の裾を引っ張った。


「偶然って、何がだ?」

「ヘルメス・“トリス”メギストス。ファムのもう一つの名前と似てるっていうか、部分的に同じだと思わない?」

「――確かに。けど、ファムは錬金術師に仕えてるわけだから、錬金術師にとっての偉人から名前を借用してもおかしくないだろ」


 そう答えると、レオナは納得したようなそうでないような顔で押し黙った。理屈は理解できるけどまだ少し引っかかっている、といった態度だ。


「ヘルメス・トリスメギストスね……その人物が錬金術を極めたというのが本当なら、現代の錬金術はもっと発展していていいんじゃないか?」


 今度はクリスが疑問を口にした。俺は錬金術に詳しいわけではないが、言われてみればそんな気もする。


「伝説によると、ヘルメスは自分の研究成果を複数の人工宝石の石板に刻み込んでどこかに封印したと伝えられています。私達、錬金術師の間では、魔石を昇華して祝福(カード)に変える技術は帝国が宝石板(タブレット)の一つを発見、解読して得たものだと考えられています」

「ああ……ありがちな話だね。リスが木の実を地面に埋めて保存したはいいけど、隠し場所を忘れてしまうのとよく似ている」

「……ええ、それをやらかす錬金術師は未だに多いそうですね」


 ミシェルは苦笑交じりに笑っている。


「ですが、ヘルメスの場合はそうではありません。自身の研究成果が当時の世界にとって早過ぎると判断し、適切な時代に見つかるよう計算して封印した――そう伝えられています。例えば一例として――」

「おおっと! 可愛いお嬢さん達とオマケ一名! ストイシャがお呼びだぜ! 全員集合の作戦会議の時間だ!」


 デミラットのドルドがノックもなしに部屋に飛び込んできた。というかオマケって何だ。ひょっとして俺のことか。俺のことなのか。


 それはともかく、名残惜しいが雑談はここで終了だ。個人的に、錬金術とヘルメスの話は興味深かったので、また機会があったら詳しく聞いてみたい。そんなことを考えながら、俺は駆け足でストイシャ達のところへ向かった。

動きのない会話パートはここまで。次回から(物理的に)動き出します。

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