人形生活の終わり
そんな平穏な日々にも、突如として終わりが訪れる。
ミシェルたちの両親は、その日は家にいなかった。会社の共同経営者である父親と母親は、仕事の都合により二日間だけ家を留守にすることになったのだ。二日間だけなら、子供たちに任せてみようと判断したらしい。
両親の考えは正しい。子供たちの自立のためには、これも必要な段階ではある。しかし、世の中には……とんでもないタイミングで、想定外の事態が起きることもある。
この家にも、最悪のタイミングで最悪の事態が起きてしまったのだ。
その時、何が起きたのか。部屋の中にいた俺には、詳しいことはわからない。わかるのは、夕方に子供たち三人が一階のリビングに揃っていたことだけだ。
突然、ドアの開く音がした。次いで、大人が入って来る足音。それも、ひとりではないようだ。俺は、両親が頼んだベビーシッターでも入ってきたのかと思っていた。
だが、違っていた。入ってきたのはベビーシッターではなく、ファッキンシットなクズ野郎だったのだ。
いきなり、子供たちの悲鳴が聞こえてきた。ついで、野太い男の声──
「ガキども! おとなしくしろ!」
俺は、すぐさま状況を理解した。招かれざる客が、この家に侵入してきたのだ。しかも、ひとりではない。少なくとも、二人以上の大人が家の中に入り込んでいる──
これは、厄介なことになったぞ。俺は耳を澄ませ、状況を把握することに努めた。
「お嬢ちゃん、金目のものはどこだ? 知ってんだろ?」
男の声だ。金が目当てか。ならば、さっさと出しちまえ。金さえ入れば、長居は無用である。さっさと引き上げるはずだ。
最悪なのは、金を得られなかった時だ。
「わ、わからないです……」
ジュリアの声が聞こえた。あいつの、あんな弱々しくて痛々しい声は初めてだ。泣いてるのか。
何でもいい、早く金を出しちまえよ……と、俺は心の中で叫んでいた。こいつらは、キレたらとんでもないことをしでかす。強盗なんかやらかす連中というのは、はっきり言ってバカな粗暴犯が多い。金を得られないとなると、腹立ち紛れに何をしでかすかわからねえ。
そして、事態はどんどん悪い方向へと転がっていく──
「おい、そのガキを痛めつけろ。やり方は、わかってるな」
さっきの男の声だ。同時に、何者かが動く音も──
となると、今の奴がリーダー格か?
いや、そんなことより……ガキって誰だ? エリックか? ミシェルか?
痛めつけるって何だよ? あんな小さな子に、何をする気だ?
そんなことを考えていた時、悲鳴が聞こえてきた。あれは、エリックの声だ。
さらに、ミシェルの泣く声も──
「もうやめて! お願いだから、弟たちに手を出さないで!」
叫んだのは、ジュリアだった。こんな状況でも、あいつは懸命に長女としての責任を果たそうとしている。
自分も幼い身でありながら、幼い弟と妹を守ろうとしている……。
俺の中を、様々な思いが駆け巡る。そんな中、ふたたびリーダーの声が聞こえてきた。
「いいか、さっさと金目のものを探して持って来い。現金、通帳、カード、宝石、そういったものだよ。わかるだろうが。持ってこなかったら、弟の指をもう一本へし折るぞ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は発狂しそうになった。エリックは、奴らに指をへし折られたというのか。
このままだと、もう一本折られてしまう──
くそ、なんてことしやがる!
どうすればいいか必死で考えた。だが今の俺には、何も出来ないのだ。動くことも、声をあげることも出来ないのだから。
しかも、事態は最悪の方向に進んでいく──
「いいか、このジョンはな、小さな子が大好きなんだよ。特に、この末娘みたいなのに目がなくてな……お嬢ちゃんなら、俺の言ってる意味、わかるよなあ?」
ちょっと待てコラ!
どういうことだ!?
てめえら、ミシェルに何する気だ!?
「やめてください! ミシェルには手を──」
ジュリアの叫ぶ声が聞こえた。直後、罵声とともに肉を打つ音。続いて、呻き声。
間違いない、ジュリアの呻き声だ。
恐らく、止めに入ろうとして殴られた──
「ほう、この子はミシェルってのか。可愛い子だね。将来は美人さんになりそうだ」
そこで、リーダー格の言葉が止まった。エリックとミシェルの泣く声だけが聞こえてくる。俺は、耳を澄ませた。今の状況は、どうなっているのだろうか。
ややあって、ふたたび声が聞こえてきた。
「いいか、今からミシェルちゃんとジョンは上の部屋に行く。早くしないと、ミシェルちゃんの初体験の相手は、このジョンてことになっちまうぜ。言いたいことは、わかるよな?」
「そんな……やめてください。お願いですから、ミシェルだけは……」
呻き声をあげながら、それでも必死で懇願しているのはジュリアだ。さらに、エリックとミシェルの泣き声も聞こえる……。
こんな地獄があっていいのか。
三人の幼い子供が、人間のクズどもに痛めつけられている。なのに、俺は何も出来ない。
ただ、黙って聞いていることしか出来ない。
だが、俺は甘かった。本当の地獄は、これからだったのだ──
「おいジョン、ミシェルを連れて上の部屋に行け。お嬢ちゃん、さっきも言った通り金目のものを見つけて持って来い。早くしないと、ミシェルちゃんがどうなっても知らないぜ」
「わがりまじた……ざがじでぎまず……」
涙声で、ジュリアが答えた。
だが、それよりも恐ろしいことが起きる……階段を昇る音がしたかと思うと、ドアが開いた。俺のいる部屋に、ミシェルが入って来やがったんだよ。
でかくて、いやらしい顔をした中年男のジョンと手を繋いで……。
「ミシェルちゃん、そこに座って」
ジョンは、猫なで声で言った。ミシェルは言われた通り、怯えた表情で床の上に座り込む。
いくらなんでも、まだ手は出さないだろう。その前に、ジュリアが金目のものを探してくることに期待するしかない。金さえ手に入れれば、さっさと引き上げるはずだ。
だが、世の中はどこまでも理不尽に出来ているらしい。ジョンの奴、我慢できなくなったのだ。
「怖がることないよ。今からおじさんと、お医者さんごっこしようか。さあ、服を脱いで」
このクソ変態野郎は、とんでもないことを言いだしやがった。ミシェルはといえば、何も言えず震えるばかりだ。その顔は、涙で濡れている。
無我夢中で、俺は叫び続けていた──
動け! 動け! 動け! 動け! 動け! 動け! 動け!
気が狂いそうだった。心の中で喚き散らしながら、必死で体を動かそうとする。俺はプロの殺し屋だ。体さえ動けば、こんなクズなど怖くない。三十分あれば、皆殺しにしてやる。
だが、動けないのだ。
こんなの、ありか?
てめえ、それでも人間か?
目の前で、ミシェルがクズの中年男にひどい目に遭わされるようとしている……この娘は、俺なんかとは違うんだぞ。本当にいい子なんだよ。何も悪いことはしていない。こんな子が、不幸な目に遭わされていいはずがない。
なのに、俺は何も出来ない。黙って見ていなくてはならないというのか。
神よ……いや、悪魔でも何でもいい!
頼む! 俺の体を動けるようにしてくれ!
三十分でいい! 俺を動かしてくれよ!
そうしたら、何でもくれてやる!
俺は叫び続けた。声にならない祈りを天に捧げもした。しかし、体はピクリとも動かせない。その間にも、ジョンの手がミシェルに伸びる。
服を脱がそうとしているのだ……。
頼むから、やめてくれ。
もう、嫌だ。
こんなことなら、目を潰してくれ。耳も潰してくれ。
何も見たくない。何も聞きたくない。
俺を殺してくれ──
その時だった。突然、声が聞こえてきたのだ。
「さっきの言葉、本気かい? 君を動けるようにしたら、何でもくれるのかい?」
はっきりと聞こえた。若く、軽薄な感じの言葉である。だが、今の俺に考える余裕などない。ただ、心の中で叫ぶばかりだった。
ああ、何でもやる! だから動けるようにしろ! と。
「わかった。君の願い、叶えよう。ただし三十分だけだ。それが終わったら、君は人形に戻るよ」
直後、俺は奇妙な感覚を覚える。
腕が動くのだ。それも、人形の可動域を完全に無視して動ける。指も、手足も、人間だった時と同じく完璧に──
動ける!
動けるんだ!
俺は、すぐさま立ち上がった。床に転がっていたボールペンを拾い上げ、逆手に握る。
今の俺は、五十センチほどの人形だ。腕力は、ミシェルよりも弱いかもしれない。正面から戦えば、確実にジョンに勝てないだろう。だが俺には、プロの殺し屋として仕事をこなしてきたキャリアと、その間に培ってきたスキルがある。こんな素人連中には、絶対に負けない。
チャッキー・ノリスをなめんじゃねえ!
俺は、ジョンの背中を素早く駆け上がる。スケベ心に支配されていたジョンは、反応できなかった。
プロなら、こんな素人を仕留めるのは一瞬あれば充分だ。ジョンの首に、ボールペンを突き刺す。首を通る頸動脈に、深く突き刺した。血管を傷つけ、すぐに引き抜く。
次の瞬間、大量の血が吹き出る──
ジョンは、何が起きたか理解できなかったのだろう。頸動脈を貫かれ、首から血が流れ出しているというのに、ポカンとした顔でしゃがみ込んだままだ。部屋の中は、血で真っ赤に染まっていく──
やったぜ、ミシェル!
俺は心の中で叫びながら、ミシェルの手を握った。その手を思い切り引っぱり、ベッドの下へと導く。ミシェルは混乱しているのか、何の抵抗もせずベッドの下に隠れた。
その時、獣の咆哮のごとき声が聞こえてきた──
ようやく事態を理解し、ジョンは吠えた。首から血を吹き出しながらも、憤怒の形相で立ち上がる。
だが、そこまでだった。短時間での大量の出血が、ショック症状を起こさせたのだ。ジョンは、すぐに倒れた。その場で、ガクガク痙攣を始める。
俺は、素早くジョンのポケットを探った。この手のバカは、何かしらの武器を所持しているはずだ。予想通り、折りたたみナイフが見つかる。素早く刃を出した。
その時、ドアが開く。ジョンの断末魔の咆哮を聞いたのだろう。現れたのは、人相の悪い二人の男だ。どちらもジョンより若く、片方は凶悪そうな顔のスキンヘッドだ。もう片方は、ガリガリに痩せているヤク中のごとき顔つきである。
両方とも唖然とした表情で、倒れたジョンを見ている。まさか、床に置かれている人形がやったなどと思っていないだろう。
こっちにとっては好都合だ。俺はボールペンとナイフを握り、不意を突いて床を転がった。ナイフで、ヤク中の足の甲を突き刺す。
悲鳴をあげながら、ヤク中はその場にしゃがみ込む。その体勢になるのを狙っていたのだ。俺は、ヤク中の眼球に思い切りボールペンを突き刺した。そのまま、一気に押し込む──
ペンは脳にまで達し、ヤク中は即死した。
その瞬間、スキンヘッドの蹴りが飛んできた。俺は、その蹴りをまともに喰らっちまった。サッカーボールみたいに、一気に吹っ飛ぶ──
「この化け物が! ぶっ殺してやる!」
スキンヘッドは吠えながら、俺の体を両手で掴んだ。すげえ馬鹿力だ。もがいても、奴の手から離れられねえ。
次の瞬間、俺の左腕はもぎ取られた。
「おら! どうした! この化け物が! なんとか言ってみろ!」
スキンヘッドは、俺に顔を近づけ喚いた。
これは、最高に愚かな行為だった。スキンヘッドは、三人の中では一番強い。腕力はもちろん、とっさに判断し行動できる能力もある。人形が動いて攻撃してくる、そんな異常事態に対し考える前に行動できる……これはたいしたものだ。
だがな、いかに相手が片腕もがれた人形だろうと、顔を近づけちゃいけない。急所が集中してる部位である顔を、不用意に相手の前に近づけていく……これは、ガチの殺し合いでは絶対にやってはならないことだよ。
俺は、スキンヘッドの目に蹴りを食らわした。いわゆる回し蹴りではない。爪先を、相手の眼球に突き刺す蹴りだ。
蹴りが当たった途端、スキンヘッドは悲鳴を上げた。同時に、掴んでいる手の力が緩む。俺は、すかさず手から脱出した。
だが、スキンヘッドも怯まない。片目を潰されたにもかかわらず、まだ反撃の意思は残っていたのだ。奴は喚きながら、またしても俺を蹴飛ばそうとする。
いやいや、同じ手を二度も食わないよ。奴が蹴りを放った瞬間、素早く転がり蹴りを躱した。と同時に、軸足に飛びついた。
アキレス腱を、ナイフで切り裂く。あのヤカモトを仕留めたのと同じ手だ。どんな空手の達人だろうと、アキレス腱を切られりゃ耐えられない。
スキンヘッドもまた、無様な悲鳴をあげた。立っていられず、その場に倒れる。俺は、奴の喉を切り裂いた──
やっと片付いた。思ったより時間がかかったよ。やっぱり、人形の体だと難しいね。
だが、まだ終わりではない。あの不思議な声によれば……三十分後、俺は動けなくなるのだ。動けなくなる前に、やらねばならないことがある。俺はペンを取り、そばにあった画用紙に書きだした。
(俺は、通りすがりの者だ。この家に空き巣に入ろうとしたが、変態野郎たちを見ていたら我慢できず殺した。警察が来たら、こいつらが金の分配で揉めて仲間割れしたと言うんだ。俺がやったなんて警察に知られたら、探されて逮捕されちまう。絶対に、仲間割れで死んだと言い張るんだ)
これしか思いつかなかった。
警察がこの惨状を見れば、確実にジュリアかエリックのどちらかが(あるいは二人がかりで)殺したと疑うだろう。刑事の取り調べなんか受けたら、二人の心をさらに傷つけることになる。仲間割れで死んだ、と言い張るしかないのだ。
問題はミシェルだが、いくら唯一の目撃者であっても、あんな小さな子供の言うことを、まともに聞いたりはしないはずだ。
やがて、ジュリアとエリックが恐る恐る部屋に入って来た。三人の死体を見て、何が起きたかを理解する。
茫然とした表情で、紙に視線を落とした。




