瓶詰めの後悔
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・出来事は架空であり、実在のものとは関係ありません。
※作中に登場する商品名・サービス名は、各社の商標または登録商標です。
土曜日の午後、工業街口駅前のスターバックスは、平日より少しだけ音が柔らかい。
カップにスプーンがぶつかる音も、カップルに言葉がぶつかる音も、レシートが切れる乾いた音も、急かすためじゃなく店が生きているための音になる。ブレンダの唸りが遠くで続き、笑い声と言い合いになりかけた声が、ホイップみたいに膨らんでは消えた。
私は、店の奥の壁際――三人掛けソファの端に腰を落としていた。
バイト終わりのエプロンから私服に着替え、AirPodsを耳に差し込み、スマホの画面を親指でなぞった。再生ボタンの白い三角は押されていない。
演技は得意だった。知らない振りも得意だった。
店の音が好きだと言えば、ただの名残惜しさに見える。音楽を聴かない理由はいくらでも作れる。電池が無いとか、気分じゃないとか。
けれど、今の理由は一つしかなかった。
左前のテーブルから、声がした。
「あ~……そっか」
それは、ゆうきさんの声だった。
いつもバーでドリンクを受け取る時に『ありがとー』と言う、あの同じ声。優しいのに結論をもう知っている声。
でも、今日は少しだけ重くて、カップの底に沈むガムシロップみたいな音がした。
私は視線を画面から動かさないまま、氷が溶けていくのを待つ振りをした。
音量はゼロ。世界の音だけが、耳に入って来る。
ゆうきさんは、この店の常連だった。パートナー達は彼を知っている。裏のお客様ノートには『鈴のお客さん』と書かれている。
何度か雑談をした。唐突に名を名乗られ、私も自分の名を返した。
その日から、ゆうきさんは名前で呼ぶ距離に降りて来た。親しい振りをして押し込む感じじゃない。寧ろ、玄関で脱いだ靴を揃えてから入って来るみたいな──妙な礼儀があった。
今、ゆうきさんの向かいに座っているのは、見たことの無い若い女の人だった。
その人は壁際のソファに座っている。背中の後ろに逃げ道が無い席。
けれど、その狭さに守られているみたいに見えた。
ゆうきさんは通路側の椅子に座り、背中で店の喧騒を受け止める。
隣に座る私は横を向けない。ゆうきさんと一緒に居る女の人をまじまじと見ることは出来無い。
だから、iPhoneを真っ暗にして反射で見ている。
女の人は両手でマグカップを抱き締めたまま、視線を落としていた。
飲むための飲み物じゃない。何かを誤魔化すための温度だけがあるみたいだった。
ゆうきさんは、少し背凭れに身体を預けてから、テーブルにカップを置くみたいに言った。
「僕、これから酷いことを言うよ」
沸騰した言葉で淹れたコーヒーは香りが立たない。
注がれた言葉は、そういう温度だった。
「きっと、それはもう終わってる関係だよ。待っててどうこうなるものじゃない」
女の人の肩が、ほんの僅かに揺れた。
具体的な単語は出て来ない。名前も、日付も──多分、別れた理由も。
けれど、『終わったことを未だ信じたくない女の人』が目の前にいることだけは、充分に伝わった。
女の人は、唇を結んだまま瞬きをした。涙が落ちるのを止める瞬きじゃない。落ちることを許す瞬きだった。
頬を伝う一筋が、店の照明を拾って光る。女の人は拭わなかった。泣くことを隠さない──というより、隠す力が残っていない。
私は、その光る筋を視界の隅で捉えながら、思ってしまった。
涙は胸から流れる。
喉が熱くなって、目が痛くなって、最後に頬へ落ちる。
自分が泣いていないのに、胸だけがきゅっと縮む。
そして、解った。
心を鋭く斬る様なゆうきさんの言葉は、この女の人が必要以上に傷付かないために研いであったんだ、と。
だから、ゆうきさんは慌てなかった。
呼吸の速さだけを数えるみたいに、静かに待っていた。
この人が、涙を流せるように。
「……ごめん」
女の人の声は小さかった。謝っているのに、許しを取りに来る声じゃない。自分に言い聞かせる声に近い。
「ここから先はね」
ゆうきさんが引き取る。
「『待つ』じゃなくて、『生きる』の方だよ」
その言葉が届いた瞬間、女の人の肩が更に沈んだ。
ほうじ茶クラシックティーにキャラメルソースを入れた時みたいに。
ゆうきさんはそれを受け止めて黙っている。
女の人の沈み込みを支えもしないし、突き放しもしない。
沈むだけ沈ませて、その先の底に落ちて行くのを黙って見ている。
女の人は暫く黙っていた。
やがて、息を吸い直す音が聞こえた。
言葉の代わりに、囁く様な息だけが出た。
「……分かってた」
「うん」
「分かってたのに、分からない振りをしてた」
「うん」
「それでも、待ちたかった。前みたいに……」
そこから言葉は続かなかった。
ゆうきさんが、ほんの少しだけ視線を落とす。慰めの言葉を探す視線じゃない。もう言うべきことは言った──という視線だ。
女の人は泣いて席を立たない。
立てないのかも知れない。
立ったら、今までの『待つ』が終わってしまうから。
私は、そこまで聞いてしまったことに気付いた。
聴こえてしまったんじゃない。聞いてしまった。
音楽を聴いている振りの中で、私の好奇心だけが、音量を上げていた。
女の人が鞄を持つ衣擦れの音がした。ゆうきさんも立ち上がる。
ゆうきさんは女の人を先に通し、テーブルの体温を計る様に見つめながら──
「しおりちゃん」
小さな声だった。店の音に溶けるくらいの音量なのに、真っ直ぐ届いた。
私は反射で顔を上げた。
ゆうきさんがこちらに目を向ける。
目が合った。
「変な話、聴かせてごめんね」
ゆうきさんは、いつもの顔で笑った。
「ううん。大丈夫だよ」
答えてしまってから、私は息を止めた。
しまった、と遅れて思う。
再生していないAirPods。音量はゼロ。
ゆうきさんの疑念は──今、確信になった。
咎められていないのに、胸が痛い。
自分だけが、盗んだみたいな気持ちになる。
ゆうきさんと女の人は店を出て行った。
私は、画面の白い三角を見つめたまま、押せなかった。
今更、押したところでさっきの会話は消えない。
自分が『聞いた』という事実だけが残る。
その日から、AirPodsの白さが──罪の色に見えるようになった。
一カ月が過ぎた。
夕方。
空気は少し乾き、窓の外の光は冬に近い角度になっていた。
私はまた、店の奥の席にいた。三十分のご飯休憩。AirPods。再生ボタンの白い三角は、また止まったままだ。
やめられるはずだった。二度と聞かないと決めてもいた。
けれど、私は後悔の種を指で弄ぶ癖を捨てられていなかった。
『知りたい』と『知りたくない』が、ホイップに刺したストローみたいに刺さったまま抜けない。
多分、抜いたらドロドロのホイップごと引き抜いてしまって、テーブルにベタベタと落ちて汚れる。
拭いても、拭いても伸びるだけで綺麗にはなれない。
ほんの五分前だ。
入口の自動ドアが開く。
黒い喪服の人が入って来る。ゆうきさんだった。
今日はスーツじゃない。喪服の黒だった。ネクタイの結び目が、いつもより硬い。黒の布が、胸の呼吸を押さえ付けているみたいに見えた。
少し遅れて、もう一人の男の人が入って来る。
同じく黒。けれど、黒の着方が違った。
肩が落ち着かず、視線が定まらない。
椅子の位置を確かめる様に歩く。
入って来た瞬間から、帰り道だけを探している背中。
私の心臓は急にスチームをかけられたみたいに沸騰した。
ゆうきさんは、今日は壁際のソファに座った。
守るための席じゃない。逃がすための席。
テーブルの間を通るとき、私の鼻にお線香の匂いが届く。
男の人は、通路側の椅子に腰を下ろす。
立てば直ぐに出られる位置。逃げ道が確保されている。
それが彼に必要な配慮だ、とでも言うみたいに……。
ゆうきさんは、男の人の席と出口の距離を一度だけ確かめ、視線を戻した。
逃げたくなったら逃げられる──その前提でしか、話せないことがあるみたいだった。
私は、やはり真っ暗なiPhoneに目を落とす。
音量はゼロ。世界の音だけが、耳に入って来る。
聞くまい、と唇を結ぶほど、耳が勝手に開く。
自分の中の好奇心が、またスイッチに指をかける。
「君の言うことは正しいよ」
ゆうきさんの声が低く落ち着いていた。正しさを褒める声じゃない。正しさを、受け止める声だ。
「どちらかが、離れたいと思った時点で関係は終わりさ」
「……そう思って、言った」
「うん。だから、間違って無い」
ゆうきさんは肯定しながら、ゆっくりと首を振る。
「ただ……足りないんだ。決定的にね。配慮と、言葉が」
「すみません」
男の人の声が震えた。
その瞬間、私の背中が勝手に硬くなる。
謝る、という言葉が、免罪符みたいに聴こえたからだ。
「ううん。ダメだ」
ゆうきさんは即座に言った。
「謝る相手は僕じゃない」
「でも……俺は……」
「ううん。謝らなくていい。と言うより──」
間が、落ちた。
その間に、店の音が入り込む。
注文番号を呼ぶ声。スチームの沸騰音。氷が砕ける乾いた音。誰かの笑い。世界は平気な顔をして続いている。
「君は、もう謝れないんだ」
男の人が息を呑んだのが分かった。この三人の間で、音が止まったから。
「……あいつ、ほんとに」
男の人の声が、途中で折れた。
言い切れない単語が、喉のバイタミックスに貼り付いたフラペチーノみたいだと思った。
「うん」
ゆうきさんは短く言った。
「亡くなった」
その一言で私の心臓が止まる。
「君が背を向けた、その少し後に」
「……俺のせいだ」
男の人の声で、また私の心臓が動き出した。
「君のせいだ、って言い方で、君は自分を楽にしたい」
「楽になりたいに決まってんだろ」
男の人の音色が変わる。
「うん。だから言う。ここで楽になる方法は無い」
ゆうきさんの声は柔らかいのに、柔らかいまま骨伝導のイヤホンみたいに頭蓋に響く。
「君が謝りたいのは、君のためだよね」
「違う」
「違わないよ」
被せる様に、ゆうきさんは言い切る。
私の胸が、勝手に熱くなる。
自分が怒られている訳でも無いのに、胸が苦しい。
多分、二人と同じ物語を知ってしまうからだ。聞かなければ知らなかったはずの物語を……。
「君は、謝って『終わり』にしたい。痛みを払えば帳尻が合うって思ってる」
「……終わりにしてぇに決まってんだろ」
「うん。だから言うね。届かない謝罪は、謝罪じゃなくて懺悔になる」
『懺悔』という日常では聞き慣れない言葉が、私の耳に残った。
知らない単語じゃないのに、知らない重さだった。
口にしたことの無い重さ。シトラス果肉の瓶の底に沈んで、揺らしても浮かばない重さ。
「じゃあ、俺はどうすりゃ良いんだよ」
「生きるだけ、だよ」
「……綺麗事だろ」
「綺麗事だよ」
ゆうきさんは淡々と言った。
「でも、綺麗事じゃないと人は生きて行けない」
男の人が笑った。乾いた音だった。
「許されねぇのに?」
「許されないよ」
ゆうきさんは、また即答した。初めから男の人の返事が分かっているみたいに。
「誰も君を許さない。君も君を許さない。多分、一生」
男の人が、声を荒げかけた。
「言葉が足りなかったら、何だよ。言葉が足りなかったら、死ぬのかよ」
店の空気が、ほんの少しだけ重くなる。
周りの誰も気付かない程度の重さ。
けれど私の中では、はっきりと重くなった。
「死ぬこともある」
ゆうきさんは、声量を上げなかった。
だからこそ、怖かった。
男の人がしばらく黙った。
喉の奥で何かが鳴る音がした。
飲み込んだのか、堪えたのか分からない音。
「君がここで『すみません』って言っても、誰も救わない。救われるのは、君だけだ」
「じゃあ、俺は……」
「君が今日、言って良いのは『分かった』だよ」
「分かったって言えば終わるのか」
「終わらない」
「終わらないのに、分かったって言えって?」
「そう。終わらないって分かったって」
男の人の呼吸が乱れる。乱れた呼吸が、店の音に混ざる。
私は、息をするのが怖くなる。自分の呼吸も、会話の一部になってしまうから。
やがて、ゆうきさんの声が、ほんの少しだけ温度を変えた。
慰める温度じゃない。説明する温度。
多分、誰かのためじゃなく自分のために言い直す温度。
「愛は人の人生を素晴らしく幸せなモノにする力がある。愛を信じることが出来れば、人生は輝く。だけど、反対に愛が人を殺すし、戦争だって引き起こす。愛に裏切られた人は、愛に殺される。愛の力は、人間の持ってる中で最も強力なパワーなんだ。それを操作する簡単なスイッチが言葉だよ」
一気に言い切る。早口じゃない。有無を言わせぬ重さだけで、自分以外の言葉を拒絶していた。
ゆうきさんの『言葉がスイッチ』という単語が、私の耳の奥に残った。
スイッチ。押したら戻らないスイッチ。
自分が今日まで押してきた、何でも無い言葉が、急に怖くなる。
「……じゃあ俺は、もう二度と、言葉を使うなってことかよ」
「違う」
ゆうきさんは即座に否定した。
「使うんだよ。だから怖い。だから、混ぜるんだ。今日の痛みを」
「痛みを、混ぜる?」
「うん。誰かに向けて言葉を使う度に、今日のことを思い出せるように──それが、君の責任になる」
男の人が椅子を引く音がした。通路側。直ぐに逃げられる音。
逃げる、というより、崩れる音だった。
「俺……」
言いかけて、男の人は言葉を捨てた。
捨てて。
立ち上がって。
出口へ向かった。
黒い背中が、ドアの向こうに吸い込まれる。
ゆうきさんは追わなかった。
追わないことが、今日の配慮だとでも言うみたいに。
ただ座ったまま、カップの縁を見つめていた。
その横顔が、ふっと、別の誰かの横顔と重なる。
泣いていた女の人の横顔。
『待ちたかった』と言った口元。
私の胸が、遅れて痛くなる。
私は、再生ボタンに指を置けない。
押せば、音楽が鳴る。世界を遮断できる。聞かなかったことに出来る。
誰にも知られぬまま、ずっと音楽を聴いていた振りも出来る。
でも、押せなかった。
胸に届いてしまった言葉は、呪いになって消えないと分かったから。
私の胸の奥には、未だ白い三角が止まったまま残っていた。
私はゆうきさんに助けを求めようとする。でも、見たいのに見ることが出来無い。
このまま誰にもバレずに知らない振りを通す方が楽かも知れない。
『届かない謝罪は、懺悔になる』
──ゆうきさんの言葉を思い出す。
ゆうきさんが立ち上がる音。お線香の匂いは、もうしない。
「大丈夫。たまごっちの話だよ」
咄嗟に私はゆうきさんを見る。
そこにはいつもの優しい笑顔があった。
ゆうきさんは私だけに聴こえる声で──私の呪いを解いてくれていた。
この世界には、誰にも届かなかった手紙だけを集めて並べている棚がある。
宛名も、切手も、きちんと貼られたまま。
ただ投函されなかったか、投函された後で行き先を失った手紙たち。
空になったシトラス果肉の瓶に詰められて、誰にも触れられない棚に置かれている。
一つ、封筒の入った瓶がある。コーヒーフラペチーノの色だ。
差出人は、あのスターバックスで泣いていた女の人。
宛名は、『ゆうきさんへ』。
瓶は開かれない。
瓶の中の手紙は、誰にも読まれない。
読まれないまま、綺麗に折られた紙だけがそこにある。
瓶のガラス越しに見える封の糊は、もう乾いている。
乾いたまま、解けない。解けないまま、今日も棚に並んでいる。
誰かに届かなかった言葉は、いつだって少しだけ遅れて、別の誰かの胸に残る。
残ったものの名前は──多分、後悔だ。




