65 帰宅
とりあえず、一旦はコレで打ち止め。
「すぅ……ふふ」
実家までもうすぐというところで信号待ちをしていると、結衣が機嫌の良さそうな笑みを浮かべていることに気がついた。
もしかすると須藤家を出た時からそうだったのかもしれないが、運転に集中していたのでよくわからない。
聞けば、友達と“お泊り会”は初めてなので、ちょっと楽しみなのだそうだ。
そういえば結衣の母親や唯から聞いた限りでは、家庭事情の関係や本人が少し人見知りであったりして、結衣には友達が少ない。交友関係がそれほど広くない。しかも、高校に進学してから中学までに仲のよかった数少ない友人は別の学校に進学したと聞いている。
家に友達を招いて、または友達に招かれて、テーブルを囲んで一緒に勉強したり、遊んだり、食事をしたり、夜更かししたり、といった光景に少し憧れがあったのだろう。同年代の少女たちのそうした楽しそうな風景の中に彼女自身も入れることがとにかく嬉しいのかもしれない。
それはごく普通の光景で、だけど俺が結衣と出会った頃、彼女にはそんな“普通”がなかった。普通ならあって『当たり前』のものが彼女から失われようとしていたためだ。否、既に失われたものもあったはずだ。
(当たり前……か)
校長室での結衣の言葉と、白石校長の話を思い出す。そして、考える。
結衣の選んだ『結婚』という選択は、世間一般の女子高生の“普通”や“常識”からかけ離れた選択だろう。
だけど選択したことで、彼女は彼女自身の『当たり前』を守ることができた。
彼女自身の学生生活、友達と共有する時間、家族の健康、平穏な生活……それはいつの間にかあって当たり前になっていて、その価値に殆どの人が気づかない。俺もその1人だった。
選択しなければ、結衣は今頃どうなっていたのだろう?
あの時、俺は彼女の決断を拒み続け、彼女が望む『当たり前』よりも俺の中の“普通”や“常識”を強要し続けた。
もし俺が最後まで拒絶し続け、彼女が『当たり前』を手放していたら……多分、俺があの時結衣に望んでいた“普通”や“常識”さえも彼女の手元には残らなかったのではないのだろうか。
今、結果として彼女は『当たり前』を守り抜いた。では、“普通”や“常識”は?
間違いなく結衣の現状は“普通ではない”し“非常識”だ。だが、この良し悪しの評価はこれからの俺たちの頑張り次第になるだろう。
普通でないこと、非常識であることが、必ずしも悪いわけではないはずだ。その後が“より良く”なったのであれば、とりあえず正解なのだろう。
あの時の俺の独身生活と人生設計だってそうだったと思う。周りから否定的な意見はそれなりにあったけど、それなりに毎日より良く生活することが出来ていた。不幸ではなかった。少なくとも悪くはなかった……はずだ、と思う。
でも『当たり前』だけは失っちゃいけない。
それは良し悪しではなく、あるかないかの問題で、これを失えば日々をより良く生活することも出来ず、不幸にしかならないのではないだろうか?
「あぶなっ!」
「きゃっ!?」
実家まであと少しのところで猫が道路に飛び出し、慌ててブレーキを踏んだ。
前のめりになった身体にシートベルトが食い込み、車が停車する。
轢いた感触はなかったがシートに座ったままを辺りを確認すると、前照灯の灯りの隅を小走りに駆けていく猫を見つけて俺はホッと息をついた。
あと少しブレーキを踏むのが遅れていたら、無事ではすまなかっただろう。運転中に考え事をしていたので、反応が遅れていた。
「ごめん、結衣さん。大丈夫?」
「はい。ちょっとビックリしました」
2人そろって安堵のため息をついて、俺は運転中の考え事は駄目だと人生で何度目になるかわからない反省をしながら、再びアクセルを踏んだのだった。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
「ただいま」
「遅くなりました」
「おかえりー♪」
「お邪魔してまーす」
「こんばんは」
勉強会とだけあって、妹とその友達、後輩が教科書やらノートを広げて居間のテーブルを囲んでいた。
俺と結衣が現れるや、唯は嬉しそうに声を弾ませ、ひょろひょろとした短い癖毛の目立つ背の高い少女と、小学生かと思うくらい小柄な少女がそれぞれ挨拶する。
「ねえ。何で須藤ちゃんとお兄さんが一緒に帰ってくるの?」
「結衣さんが遅くなるって聞いたから、ちょうど今日は車に乗ってたから迎えにいったんだよ。もう暗くなるのが早いし、自転車でも1人で夜道は危ないでしょ?」
背の高い少女・晶が早速投げかけてきた疑問に、俺は実家の玄関前で予め考えておいた答えで応じる。
晶は納得した様子で唯に「優しいお兄さんだね」などと話している。女の子から本人の目の前でそう評価されるのは、照れて反応に困るからやめて欲しい。しかもそれが嘘をついて得た評価であるとなれば、居心地が悪い。
「じゃあ、お兄ちゃんもユッチも帰ってきたことだし、ご飯にしよっか?」
「じゃあ、俺、着替えてくる」
「ほら。ユッチも着替えてきて」
教科書やノートを片付け始めた彼女たちを見て居間を出ようとしたところで、唯が俺の後に続きそうになった結衣を引き止めて、さりげなく自分の部屋まで背中を押している。そういえば、結衣は唯の部屋を使っていることになっていたな。
自分の部屋に戻り、不自然にスペースの開いたクローゼットを見て、なんとなくため息が漏れた。結衣の衣類の殆どが唯の部屋まで移されたようだ。
もし結衣と夫婦喧嘩でもして『実家に帰らせていただきます』とかなったら、こんな風景になるのだろうか……などと馬鹿なことを考えてしまう。
スーツの上着を脱いだとき、上着用の大き目のハンガーがないことに気がついた。いつもなら部屋に戻る前にネクタイと一緒に結衣が預かってくれて、ブラシをかけてから自室に戻してくれるのだ。
手ごろなハンガーが見つからず、外したネクタイをどこに置いたものか悩み、そういえばカバンに弁当箱を入れたままだったことを思い出したりと、いつもと勝手が違う状況に戸惑ってしまう。後になって気づくことだが、ハンカチとティッシュもそのままだ。
結衣と実家に住むようになってまだ2週間も経っていないはずなのに、この短期間で結衣の存在が俺にとって『当たり前』になっていたことを今更ながらに気づかされる。そして、そんな世間一般から見て俺は“普通ではない”し“非常識”な状況にありながら、彼女によって俺の生活は、いつも“より良く”されていたことにも気づかされる。
そうなると、1つ気になってきた。
俺も結衣にとっての『当たり前』になれただろうか? そして俺は結衣にとっての何かを、“より良く”しているのだろうか?
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
「お兄ちゃん、どうかした?」
「いや、まぁ……なんていうかさ」
食卓の風景に、俺はちょっと緊張していた。
そこには妹と結衣の他に若い女の子が2人、食卓を囲んでいるわけで……そんな華やかな食卓風景に俺なんかが入るのに場違いな感じがしていた。
とは言っても、そんなのは一時的なもので、当たり障りのない会話をしながらちょっとずつ打ち解けてきた。
今のところ、変に勘繰られることもなく平和そのものだ。
「それでですね。唯ったら夏の大会で……」
「それ言わないでー!」
なんとなくだけど、この晶という少女は唯の友達でありながら天敵っぽいポジションのようだ。
隣に座る唯の短い髪をクシャクシャと撫でたり、隙を見ては抱きついたりして、その度に唯は抵抗するのだが、どうにも腕力では敵わないらしく悔しそうにされるがままになっている。
シャツを持ち上げる膨らみは美緒ほどではないものの、目のやり場に困った。
「すーちゃん。この前リクエストした本、いつ入りそう?」
「司書の先生に聞いたら、テストが終わったくらいですって」
そして、この小学生みたいな少女・綾香は結衣のクラスメートだそうだが、さっきから本の話ばかりしている。どことなく口調は控えめで、大人しそうな印象を受けた。
それにしても、結衣も十分小柄な方なのだが、この少女はさらに小さい。何も知らなければ結衣の妹と同い年に見えるだろう。
「あ。お兄ちゃん、おかわりする?」
「いや……もう、いい」
「ちょっと作り過ぎちゃったねー」
「ごちそうさまでした」
「じゃあ、お茶を淹れますね? 裕一さんはコーヒーが良いですか?」
「お兄ちゃん。お風呂沸いてるから、先に入ってきなよ」
「え? 俺が先で良いの?」
「私らは洗い物しとくから、お兄さんはお先にどうぞ」
「先輩。このコップ、一緒に洗って良いんですか?」
「あの、裕一さん。スーツの上着とネクタイ、ブラシかけますから脱衣所のハンガーにかけておいてくれませんか?」
「お兄ちゃん。お風呂熱くなかった?」
「いや、あれくらいで良いよ」
「ゆーいー、一緒に入ろう。洗ったげる。須藤ちゃんもアヤちゃんも、追い炊き面倒だから一緒に入ろう」
「あの、吉野先輩……目が怖いです」
「裕一さん、リンゴ剥きましょうか?」
「お兄ちゃん。数学、教えてくれない?」
「ごめん。ちょっと俺、この後ネットで調べ物したいから……」
「ゆーいー、わかんないとこは私に聞きなさい」
「すーちゃん、それ何してるの?」
「その、裕一さんのお夜食の準備を……」
「テスト前とはいえ、あんまり夜更かしすんなよ」
そう言い残して俺は自分の部屋に入ると、机の上のノートパソコンを立ち上げた。
不動産会社のホームページを開き、ここ数日で目星をつけた物件のページを開く。
最近知ったばかりの口コミサイトのページも開き、目星をつけた物件の評判について目を通してみると、余計に悩みが増えてきた。
良い物件はやはり良い値段がする。手ごろなところには、それなりの理由がある。どこで折り合いをつけたものか……? 限られた時間の中で目星をつけた全ての物件を見に行けるわけもないので、可能な限り事前情報だけで実際に見に行く物件は絞り込んでおきたいところだ。
途中で夜食のオニギリと番茶を持ってきた結衣に意見を聞いてみるが、俺に遠慮しているのか特に強く要望してくるような条件もなかったので、こっちも気を使って余計に決め手に欠けてしまう。
あまり長い時間引き止めるわけにもいかず、結局また俺一人で悩むことになる。
悩むばかりで進展しないので、明日の夜にでも時間を設けて結衣とまた話すことにしようと決めて、今度は仕事に関する調べ物を開始する。
しばらくして皿からオニギリが消え、湯呑の番茶が元の3分の1くらいになった頃、ふと時刻を確認すると、部屋に入ってからまだそれほど時間は過ぎていなかった。
(なるほど……これがそうなのかな?)
独り暮らしのときは感じなかったが、結衣といるのが『当たり前』になった今になって初めて、俺は独りの夜の長さを思い知った気がした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ユッチがお兄ちゃんの部屋から居間に戻ってくると、さっきまでガリガリと物凄い勢いでノートの紙面を走っていたアーヤのペン先が、急に止まった。
それどころか、彼女はペンを置いてしまった。
疲れたのかな? と思って、私も休憩しようとシャーペンをテーブルに置くと、皆で作った夜食のオニギリに手を伸ばす。
今頃、お兄ちゃんはユッチが作ったオニギリを食べてる頃かな?
アッキー作の大きなオニギリを頬張ったその時、アーヤは隣に座るユッチを見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「あのさ……すーちゃんって、お兄さんのこと好きなの?」
次回更新は夏頃を予定……とするも、未定です。
移動先での執筆環境によっては、早まったり遅くなったり…………。
本当にいつも振り回してばかりですいません。




