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56 残業…

「結衣さん、ごめん。ちょっとトラブってて、今日は遅くなるから」


 主任や他の研究員たちが帰宅していく背中を見送ってから、俺は重たい気分になりながら携帯電話を取り出し、電話の向こうの結衣に帰りが遅くなる旨を伝えていた。

 今日は早く帰ると指切りまでして約束したのに、遅くなるなんて……これってマズイよね。


『ふぅ……くすす♪』


 しかし、電話の向こうから聞こえてきたのは、どことなく楽しそうな含みのある笑い声だった。

 機嫌が良い、というよりは……悪巧みをしているように聞こえてくるのは気のせいだと思いたい。

『わかりました。でも、無理はしないでくださいね。お夕飯、いっぱい用意して待ってますからね』

 妙に甘ったるい猫撫で声でそう言われて、俺は一瞬だけ背筋が震えるのを感じた。

 なんだろう? ……いつだったかに見た結衣の蘭蘭と輝く瞳を思い出してしまう。

 やっぱ、怒ってるのかな?

「なるだけ早く帰るから」


『ふふふ……早く帰ってきてくださいね』


 これは俺の勘だけど、多分この続きは『早く帰らないと……になりますよ』という脅迫のような気がする。間違っても結衣は口には出さないだろうけど、帰ったら何かが待ち受けていることを示唆している気がした。

 一言二言話して電話を切ると、俺は自分の机の上に積み重ねられた大量の簿冊に向き直った。

 その簿冊の山を挟んで向かいの榊女史の机の上にも同じ量の簿冊が積み重なっていて、ノートパソコンごしに申し訳無さそうにこちらの様子を伺う榊女史と目があった。

「すいません。私のせいで……」

「いや、いいんだ。こっちも新人の君に頼りすぎてた。早く終わらせよう」

 第1研究室に残っているのは、俺と榊女史だけだった。

 なんのことはない。榊女史がポカをしてしまい、ここ最近は結衣とのことで頭がいっぱいで新人の仕事のチェックを怠っていた俺のせいでそれに気づくのが遅れ、こうして残業するはめになっただけのことだ。

 榊女史はパソコンの扱いに明るく、異動してきた日から何をやらせても卒なくこなしてくれていたのだが、宣伝部から製薬という別分野に移った影響はそれなりにあったのだろう。やる気は十分あるし、俺よりも有能だし、わからないことがあれば聞いてくるだろう、と高をくくっていたのが失敗だった。気がついたら頼りすぎていた気もする。

 彼女は顔には出さないけど、新人として不安もあったろうし、何がわからないかすらわからず仕事をしていたのだろう。そこを俺が先輩として気づくべきだったのだが……残念ながら俺は察しの悪い男である。一応、気を使ってはいたのだが、気を利かせることが出来ていなかった。

 否、そもそも俺は人に“気を利かせる”ということ事態が苦手なのだが……。

 とにかく、これは俺の落ち度でもある。俺はこの残業に付き合わなければならない。


 カタカタというキーボードを叩く音と、ペラペラという簿冊のページを捲る音が静かな研究室に響いていた。

「先輩、これとこれの区分は?」

「フォルダの4に入れといて。あーっと……ごめん、そこの3つは新しいフォルダにいれとこうか。こっちの点検簿だけど、俺の方で書き直して差し替えるから、明日にでも3研主任に印鑑もらってくれる?」

 ふと壁にかけられた時計を見れば、本当ならもうすぐ実家に帰っている時間だった。

「あの……さっきの電話の相手、婚約者さんですよね? あとは私だけで何とかしますんで、先輩は早く帰ったほうが……」

 俺の視線の先が気になったのか、榊女史は不安そうにそう問いかけてきた。

「ああ、大丈夫。遅れるってことはちゃんと伝えたし、このペースならあと1時間もあれば終わるでしょ?」

 大丈夫とは思えないのだが、今は仕事の方が優先だ。それに……、

「恋人や家庭を言い訳にして仕事を逃げたら、後輩に示しがつかないよ」

俺はそう付け加えて、目線を資料に戻して手を動かし続けた。


 俺は今でも、既婚者が嫌いだ。恋人がいる奴が嫌いだ。それを仕事を逃げる言い訳にする奴が嫌いだ。仕事の障害にしている奴が嫌いだ。

 結婚してるのがそんなに偉いのか? 恋人がいるのがそんなに偉いのか? 恋愛とはたしかに美しいのかもしれない。だが、美しいものが本当に正義なのか? 優遇され、融通される彼らを見ていつも思っていた。

 結衣がいる今でも……そちら側に足を踏み入れた今でも、恋人や家庭を言い訳にするのは嫌だし、許せないつもりだ。

 それは許しがたい堕落だと思っている。その堕落を許したせいで、あの後輩はいなくなった。

 既婚者になったとしても、この姿勢だけは変えたくない。



 ▼ ▼ ▼ ▼



「終わったぁ……」

「先輩。本当にありがとうございました」

 ドッカリと椅子に座って背凭れに体重を預けながら、俺はベルトのポーチから取り出した目薬を乾いた目に落とした。

 窓の外はもう真っ暗だ。

(早く帰ろう。この時間なら10分後にはバスが来るはずだ)

 大急ぎで帰り支度を始めていると、集中が切れて注意散漫になっていたのか、カバンの中身をひっくり返してしまった。

 バサバサと音を立てて資料やら筆記具やらが床に散乱する。

 榊女史に手伝ってもらいながらそれらを適当にカバンに突っ込んでいると、一枚の資料を拾い上げた彼女が興味深そうに口を開いた。

「これって、不動産屋の広告ですよね?」

「ああ、うん。そうだよ。実は新居どうするか色々と悩んでてね……とりあえず幾つか目星つけて、来週にでも、彼女と見に行くんだ」

 榊女史から資料を受け取りカバンにしまいながら、俺は疲労のせいでどこかぼんやりとしていたのだと思う。ついつい、聞かれてもないのに口が開いていた。

「俺独りならともかく二人になると、条件のいいとこってなかなか見つからないもんなんだなぁ。とりあえず自宅には仕事持ち帰り出来たほうがいいから最低2部屋は欲しいし、男の一人暮らしじゃないからトイレとか風呂にも気を使わんといかんし、結衣さん料理とか好きだから台所は充実させたほうが良いんだろうなぁ。それに、結衣さんの通学に不便だと駄目だし、なるだけなら実家に近いほうがいいしなぁ……。ああ、バス停離れたら俺もいよいよ車通勤せないかんのかな…………ああ、ごめんね。君に相談しても仕方なかったね」


「その、結衣さんって……学生なんですか?」


 ピシリ、と俺の中で何かが凍りついた気がした。

(……やばい)

「まぁ……ね。ごめん。頼むから、今は詮索しないでね」

「?? ……了解しました」

 榊女史は怪訝そうに首を傾げていたが、それ以上追求がないことに俺はホッとしつつも、自分が漏らした情報の大きさに背中に嫌な汗をかいていた。


 研究室の戸締まりをして、当直室に鍵を預けると、大急ぎでバス停まで走ったのだが……1分の差で乗り遅れてしまった。

(次のバスは……わー、20分後かよ)

 ちなみに榊女史はバイク通勤なので一足先に帰路についていた。

 タクシーでも呼ぼうかと携帯電話を取り出すと同時に、マナーモードにされた携帯電話が振動した。

 着信は唯の携帯電話からだった。

「もしもし」

『お兄ちゃん、今どこ!? 仕事はもう終わった!?』

 ずいぶんと慌てていて、切羽詰まっているような声だった。何があった?

「今から帰るとこ。バス、乗り遅れたから……」

『じゃあタクシー使ってすぐに帰ってきて! 私じゃユッチを止められない』

「え? なに? 結衣さんがどうしたの? もしかして、すっごく怒ってるとか?」

『えっと、その、怒ってるとかじゃないんだけど……とにかくすぐに帰ってきて! サト姉ちゃんも悪ノリしてて、このままだとお兄ちゃんが壊されちゃう!!』

「え? あれ? もしもし!?」

 電話はここで切れてしまった。

 俺が結衣に壊される、ってどういうことだ? 怒ってはないけど、聡子まで悪ノリしてて……いや、わけがわからん。

 話しぶりから帰宅が遅れれば遅れるほど結衣によって俺の身が危険にさらされることだけは、なーんとなくわかったけどさ。


「うん。早く帰ろう」


 ハイスペックな嫁がいかに恐ろしいのか、この時の俺にはまだわかっていなかった。

 果たして裕一を待ち受ける事態とは……?

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