閑話 My Lady Mariandel (グリフィス視点)
アーチデール男爵家は、この国でも五指に入る資産家だ。
食品、服飾、宝飾、生活雑貨、その他加工製品、工業用品、はては武器弾薬までも取り扱い、この国一番の商会といっていい。
家事使用人の給料はまっとうに支払われ、その額は文官の初任給を超えるとの噂があった。
貴族が使用人に給料を払う……これは家の財政状況によってかなり違う。
衣食住を保証する代わりに、ただ働きの家もあるところはある。
だが、このアーチデール家は元が平民、先代が商爵、今代が男爵と、爵位を叙爵されたのもあるだろう。使用人に対する給料は破格だった。
伯爵家の三男坊で、見た目がいいから、どこぞの貴族家へ婿入りをと言われて話が持ち上がり、見た目だけが重視される結婚を提示されるたびに、自分の能力を見てもらえない焦燥感があった。
文官や軍に入っても、きっと上司からそういう話はくるだろう。
ならば名のある家の家事使用人か、使用人に対して金払いのいい家での家事使用人になるか――この見た目をどうこうしようとは思わないところへ行こうと思っていた。
この時、アーチデール家が、男爵位になり、身元のしっかりした家事使用人を欲していたところに、兄の伝手で、この家の家政使用人に納まることができた。
同じ伯爵家や侯爵家の使用人に払われる雇用条件と比較しても、ここより高額な家はなかった。
アーチデール男爵家には二人の子供がいて、長男は学者気質の浮世離れしている青年、もう一人は大人しい少女――それがマリアンデール様。
貴族家の奥向きを仕切る奥様はおらず、ご子息もご息女も、大人しくて、かつてないほど穏やかで過ごしやすい日々を手に入れたのだが……。
男爵は子連れの平民と再婚をした。
再婚した女主人に色目を使われ始める。
この状態はよろしくない。
そう思い給料は落ちるが、やはり文官の再試験を受けたほうがいいのかと考え始めた頃、事故が起きた。
女主人に納まった新しい奥様の実の子、アーチデール男爵家の養女シンシア嬢が、マリアンデール様を振り払い、階段から落としたという事故。
階下に倒れたマリアンデール様は頭部を強打し、出血、横柄なだけで使えない執事を押しのけて、他の小姓や下男、メイド達に指示を出し、マリアンデール様を私室へと戻すと医師がやってきた。
治療の為に髪を切ることに、家政婦長と側付きのアンが「後生だから、短くしすぎないで」と泣きわめき、マリアンデール様は三日三晩意識不明の後目覚めたら――……変わっていた。
自分の名前も、家族も、学院生活も、何もかも忘れ――記憶を失ってしまったのだ。
自分の存在が何者かわからない状態。
普通のご令嬢ならば不安があってもおかしくないのに、その恐怖と不安を克服するかのように、彼女は動き始めた。
大人しかった少女は――その瞳のように鋼のような人格に変貌したのだ。
記憶のない彼女は家のことを知りたいと、私を呼びつける。
その時に、女主人である後妻が乗り込んできて、彼女の頬を叩いた。
以前の彼女なら叩かれた頬を押さえて俯いていただろう。
だが……彼女は反撃した。
叩き返し、髪を引き掴み、獰猛な視線を後妻に向けて説教を始めたのだ。
その説教は、今の生活が――ずっと続くなんて思っているのかと、この先に何が起きてもおかしくない、このままでいいはずがないと。
平民から男爵夫人に納まった女が持っている野心を撫でるように。
その後妻の思惑、野心を掘り起こすようなその言葉に、彼女に強く出ていた後妻は動きを止めた。
男爵から家政の権限を書面にしてもぎとり、屋敷内で幅をきかせていた後妻を、貴族夫人らしく仕立て上げる。
後妻に追従していたメイドを短鞭で脅しつけ、家政婦長に後妻の再教育を任せ、アーチデール男爵家の屋敷内を掌握していく。
使えない執事を排除した時に、彼女はその青みがかった鋼の瞳を私にまっすぐにむけて告げる。
「グリフィス、今日からお前がこのアーチデール家の筆頭執事だ」
厳かにそう言って笑みを浮かべた彼女は、貴族令嬢というより貴族家当主としての威厳を感じさせた。
仕えるべき主が――ここにいた。そう思った。
自分が何者かもわからない。
その不安が、彼女を突き動かしていた。
――記憶を、今までの全てをを失ったのならば、それ以上を手に入れないでどうする。
自分が記憶を失ったら、こんな風に行動に移せるかと言われたら、無理だ。
これは彼女の中に眠っていた、本来目覚めるはずがなかった青き血を持つ貴族の威厳と風格。
それは普通の令嬢のあるべき姿ではない、強烈で眩しい光。
ただ、今のこの方は、誰かに守られて、大事にされて、結婚して奥様に納まることに満足されるのか……。
――いつ記憶をとりもどすかわからないのに、他家へ行けるか。
それがマリアンデール様の言葉。
やはりご自身も、この不安をずっと抱えておられたのだ。
「爵位を狙うぞ、グリフィス」
後継者であるアーチデール男爵家嫡男オリバー様の研究室への訪問の帰り、馬車の中で、マリアンデール様はそう仰せになった。
「あの男ではアーチデール商会の後継は無理だ」
一度は私からも進言したことがある。
ただこの国で嫡男を押しのけて、家督を継ぐことは難しい。
できないことはないが……。
「これについては何度も考えた。私はこの家から出ることはできない。しない方がいい。それがこの家の為でもあるし、私との婚約を考える他家の為でもある。兄は嫡男だから爵位を継いで、実権は私にと考えていたが、ダメだ。あれでは」
ほっとした。
マリアンデール様のお気持ちが固まったことに。
「ただ、やはり不安があるな」
「記憶のことですか?」
嫁ぐにしろこのアーチデール家にいるにしろ、失われた記憶については、多分一生マリアンデール様につきまとう不安だろう。一番いいのは、昔のことも今の状態も、全部彼女の中で一つになっていくことだけど、それは神にしかわからない。
でも、この方を、お一人にはさせない。
「私がおります」
マリアンデール様は馬車の窓の景色から、正面に座る私に視線を向ける。
青みがかった鋼色の瞳が眩しいと思った。
あなたこそ、私の光。
My Lady Mariandel
男爵令嬢に納まらない、そのカリスマを持つ貴女に、永遠の忠誠を。




