約束する少年
そうして、わたしがハイレイン傭兵団のものになって、早くも三カ月が過ぎた。
その間、わたしがしたことと言えば――。
「リナリア、ごはん持ってきたよ」
ノックのあとに扉を開けて、エマが顔を出す。その手にトレイに乗った栄養たっぷりな朝食を見て、曖昧な笑みを返す。
わたしはこの三カ月、上げ膳据え膳でずっとエマに世話をしてもらいっぱなしのまま、なにもしていなかった。ただここにいて美味しいごはんを食べさせてもらっていただけだ。
それはまるで、エマはわたしというお荷物をただ拾ってしまっただけのようだった。
「ねえ、エマ」
ごちそうさまとトレイをわたしの様子を見守っていたエマに返すと、エマの勝ち気な目が瞬いた。
「そろそろ……わたし、どうしたらいいのか教えてくれない?」
「どうしたらって?」
「ほら……ハイレインのものになったからさ」
なんかこう……いろいろとあるでしょと手振り身振りで示す。
「魔法を使ってバッタバッタ敵をなぎ倒すとか、体の一部で魔石を作るとか、人間との取り引き材料に使うとか、」
「恐ろしいこと言わないでよ」
エマはわたしの言い草に目を剥いた。
「せっかく会えたリナリアを傷つけるわけないじゃんか。心配しなくても、準備ができたらリナリアにしかできないこと、やってもらうからさ」
それまでおとなしく待ってなよ、それだけ言うとエマはいつものようにわたしの長い髪をもて遊び始めた。
エマはわたしにごはんを持ってきてくれるだけでなく、こうしてお人形遊びのように可愛い服に着せ替えたり、髪型を弄くって遊んだりしてくれる。
交換条件としてこの命を捧げたはずの立場としては、ちょっと身に余るもてなし具合だった。
「そういえば、ステイは元気にしてるの?」
この船の船長である彼女の兄の名前を出すと、エマはあからさまにしかめっ面をした。
「せっかく再会したのに……ほとんど顔見せてくれないから」
ステイは……あの日、ローレルの元を去ってこの船に連れてきてくれて以来、わたしのところに訪れてくれないままだった。
「兄貴ね……」
エマはわざとらしくため息をついて、遠い目になった。
「せっかく会えたってのに変に意固地になっちゃってさ、もういいよ、あんなやつのことは。ほっとこ!」
エマは自分の兄だというのになんでか冷たく切り捨てて、再びわたしの髪に手を滑らせて楽しそうに結い始めた。
「いいなぁ、リナリアの髪」
歌うように、呟くようにエマはそういうと、うっとりとした手つきでサラサラとわたしの髪を流す。
「この綺麗な色。柔らかい手触り。あたしもリナリアみたいな有魔族だったらなぁ。そしたらどんな髪の色だったんだろ」
エマは口をへの字に曲げて、一つに結んだウェーブがかった黒髪を引っ張る。
「この色じゃあなぁ。カラスみたいだ」
「わたし、エマの髪好きだけどな」
力強く、豊かで、それは凛々しいエマによく似合っていた。
「でもあたしはリナリアみたいにかわいい色がよかったの!」
「……もしかしてこの服、エマが着たくて買ったものなの?」
エマはびくりと体を震わせて、目を逸らした。
「だったらわたしに着せずに自分で着たらいいのに」
「……どうせ、似合わないから」
「そんなことないよ」
やけにフリルとリボンのたくさんついたワンピースを見下ろす。
「っていうか、それを言うならわたしだって似合ってないよ」
「似合ってるよ」
エマはぶすくれたまま、恨めしそうに言った。
「少なくともあたしよりは似合ってるから」
「そうかなぁ……」
いや、どう見ても似合ってない。
たしかにつり目のきつい美人顔でグラマラスな体型のエマも似合うか似合わないかでいうと、似合わないほうに入るんだろう。
開襟シャツからちらりと覗く、エマの豊潤な胸の谷間に視線を遣る。この顔にこの体つきなら、こんなかわいいふりふりドレスよりも大人のお色気たっぷりなドレスのほうが似合うだろうな。それはそれで羨ましいの一言しか出ない。
「……ねぇ、どこ見てんの」
気づいたらエマに白い目で見られていたのに気づいて、慌ててごまかし笑いを浮かべながら視線を逸らす。
だからといって特にお人形顔でもなんでもない凡庸なわたしが着たところで、フリルに着せられているようにしか見えないというか、逆になんでこんな似合わないフリルをわざわざたくさんつけてんだ? というか。
「じゃあさ、ここでだけ着てみたらいいんじゃない?」
何気なく言った言葉に、エマが反応した。
「ここでならわたししか見てないよ」
エマの明るい海みたいな目がキラリと光る。
「お揃い、しない?」
首を傾げて聞いてみると、エマはごくりと唾を呑み込んだ。
そんなこんなで、思っていたよりも随分と穏やかな生活が続いたある日。
その日は朝からエマも忙しそうだった。いつもはゆっくりと部屋でわたしの着せ替えまでしていくのだが、謝罪とともに「トレイは置いといて」の一言ですぐに立ち去ってしまい、どうしたのだろうと首をかしげる。
どことなく、船内がザワザワしている。窓がないため推し量れないが、なにかあったのだろうか。
一人もそもそと朝食を済ませて、ぼんやりと壁を眺める。エマがいないとなにもすることがない。話し相手もいない。することがない。これでは完全に飼い殺しだな。そんなことが頭に浮かんで自嘲する。
――コンコン、と。
どれだけの時間が経ったかわからないけど、突然、小さなノックの音がした。エマにしては随分と控えめなノックだ。不審に思って構えていると、すぐに扉は開いた。
「あんまり長い時間はとれないよ」
扉の向こうから、エマは小声で誰かに話しているみたいだった。
「何度も言うけど連れて帰るような真似をしてみろ、このハイレインが……」
「わかっている。リナリアの命を救ってもらったし、他人の取り引きに口出しするような真似はしない」
「おまえのために助けたわけじゃないけどな」
「……わかっている! 時間がないんだろう? 減らず口を叩いていないで早く会わせてくれ」
聞こえてきた声にドクリと心臓が音を立てる。次いでうるさいくらいに波打つ脈。耳の奥でドクドクと血液が荒ぶっている。
エマは姿を見せなかった。その代わりに扉を開けて入ってきたのは――。
「ローレル……!!」
姿を見た瞬間、思わず駆け寄っていた。
「ローレル!!」
突進してその勢いのままに抱きついたわたしを、ローレルが力強い腕で抱きとめてくれた。
「無事だったんだ!」
ローレルのその胸に顔を埋める。今ローレルの顔を見てしまうと泣き出してしまいそうだった。
「ああ……無事だ」
「よかった……」
崩折れそうになったわたしを、慌ててローレルが支える。
「なぜあんな無茶をした」
「だって、それはあんな話を聞いてしまったら……一人で待ってることなんてできないよ」
「……たしかにマイロスが裏切り者だったことを見抜けなかったのはこちらの落ち度だった。だがあの場にはフィアロもいただろう。フィアロは相当落ち込んでいる。なぜあのとき君を行かせてしまったのか、自分一人で守り切れなかったのかと……」
「フィアロは悪くないよ」
言い募るようにローレルの胸元に手を当てると、「わかっている」とすぐに返ってくる。
「結果的にハイレインには助けてもらった。リナリアにも……感謝している」
それきり少しだけ、ローレルは黙っていた。
「……それでも、リナリアには待っていてほしかった」
ローレルの声がわずかに震え、彼の手がそっとわたしの髪を撫でた。
「わたしは後悔してないよ」
ローレルの手が何度も何度も髪を撫でる。今まで見せたこともないような優しい手つきで、彼は惜しむように髪に手を滑らせた。
「ローレルが無事だった。それだけで……もういいんだ」
「リナリア」
そっと名前を呼ばれて、髪を撫でていた手が促すように頬に添えられる。
見上げた久しぶりの新緑色の瞳に、思わず魅入る。それはつい最近まで毎日のように見慣れた色で、そしておそらく目にするのはこれで最後だった。
「リナリア」
ローレルは優しくわたしの名前を呼んだ。キラキラと輝く若葉のような色の目が細められ、緩く波打つミルクブロンドの髪がそっと揺れた。その滑らかな白磁のような頬に手を伸ばす。そっと触れた頬は手触りが滑らかで、すぐに手を離してしまうのは惜しかった。
「君たちは愛情を表すとき、人と同じように唇と唇を合わせていたな」
ローレルは冷たい手でわたしの頬を包むと、顔を寄せてきた。
求められるがままに、顔を近づける。ローレルの薄い唇はすぐに受け入れてくれた。
まるであの日の夜、耳を食まれたときののようだった。ローレルはその薄い唇で愛を伝えるかのように愛撫した。優しい感触が唇を撫で、わたしが欲しいとそう伝えてくる。与えて与えられ、溶けるような低い体温に翻弄される。
言葉が不器用な分、素直に口に出せない分を伝えるかのように、ローレルのその行為は言葉よりもよほど饒舌に愛を伝えてきた。
やがて、どちらからともなく顔を離す。上気した頬を隠すように俯いたわたしを、ローレルは再び抱き締めた。
「わたしの髪……持っていってくれる?」
「持っていかない」
震えるわたしとは対照的に、ローレルの声はもうしっかりしていた。
「まだ……それは必要じゃない。これはまだ永遠の別れじゃない。私は諦めていない」
力強く、励まされるように背中に手を回された。
「君を取り戻すためなら何度だって交渉に来よう。いつかきっと、絶対にまた一緒にいられる。その日が来る。そのために私は何度だってここに足を運ぶよ。だから心配するな。私は約束を破らない」
扉がノックされた。おそらく時間切れなのだろう。離れようとしたローレルに思わず縋りつくと、彼はもう一度だけ、ぎゅっと抱き締めてくれた。
「絶対に迎えに来る。待っていてくれるか」
「……ローレル」
ローレルが離れていき、扉へと進んでいく。離れてしまう。ローレルが行ってしまう。
「わたしのこと、忘れないで」
扉を開けたローレルは最後にもう一度だけ振り向くと、「当たり前だ」と淡く微笑んだ。
――あとに残されたのは、耐えがたいほどの寂しさを孕んだ静寂だけだった。




