連れ去る青年
頭上を影が過ぎったと同時、背中を踏んづけていたエクセリオンがふと退いた。潰れそうだった背中の重みが一気になくなって、肺に空気が急に入ってくる。ヒューヒュー言いながら咳き込んでいると、さっきまで喧騒の最中だったそこがシンと静まっていることに気がついた。
みんな同じ方向を見ていた。その視線の先、一点。さきほどまでいなかった人物が佇んでいた。
――エマと同じ浅黒い肌に、青みがかった長い黒髪を一つに縛っている。片目は黒い眼帯に覆われている。もう片方の明るい南の海みたいな真っ青な目がわたしを見て――その姿、忘れもしない。大人になったステイは、スラリと鋭いカトラスを抜いた。
場はステイに圧倒されていた。鋭い視線に睥睨されて、誰も動かない。ステイは抜いたカトラスの切っ先をエクセリオンに向けた。
「どういうつもりだ、ハイレイン」
一番最初に我に返ったのはエクセリオンだった。
「私に剣を向けるとは、気が狂ったか」
「こちらこそ聞きたい。そこの有魔族はハイレインのものだ。なぜ手を出した」
エクセリオン一人が笑い声を上げた。他の誰も動かない。セレンさんやラズラルさんでさえ、気を失ったように項垂れたままのローレルを介抱しながらも、ステイから目を離さない。
「答えは単純だ。そこの有魔族が先に手を出したからだ」
隣にエマが降り立ってきて、抱き起こされた。なんとかよろよろと立ち上がる。エクセリオンがその様子を燃えるような目で眺めている。
「その有魔族はよりにもよって国家反逆者に与した。ならば反逆者もろとも断罪するまでだ」
「悪いが彼女はすでにハイレインのものになった。勝手に手を出すことは許さない」
エマに支えられながらよたよたとステイのところまで歩いていく。ステイがその様子を見ている。
一歩二歩、彼に近づく。久しぶりの再会。喜ばしいはずなのに、ステイの顔面にはなんの感情も浮かんでいない。なんと声をかけていいか分からずに、無言でステイの顔を見つめる。
「……リナ、リア…………」
か細くかけられた声に、振り返る。さっきまで気絶したように動かなかったローレルが顔を上げて、わたしを呼んでいた。思わずそっちのほうに行こうとして、エマに止められる。
そっか、私は。
「ローレル……」
ローレルに奪い返した奴隷印を投げて渡す。隣のセレンさんが見事にキャッチしてくれた。これでもう思い残すことはない。思う存分暴れられる。
「リナリア、行くぞ」
感情のないステイの声が背中にかけられる。
「ちょっと待って、ステイ。お願いだから、あと少しだけ待って」
私を持ち上げようとしたエマを制してステイに縋ると、ステイはなにも言わずに頷いた。
「……ありがと、ステイ。すぐ終わらせるから!」
言うが早いが、めちゃくちゃな暴風を巻き起こす。でもさっきとは違う。地面に叩きつけるような、上空から吹き下ろす、立っていられないほどの暴風だ。
エクセリオン側の陣営はもうめちゃくちゃだ。みんな地面に這いつくばって、さっきのわたしみたいにカエルの潰れたような声で合唱している。その声も風に吸い込まれて消えていく。
エクセリオンもさっきのわたしみたいにみっともなく地面に這いつくばっている。ざまあみろーだ、さっきのお返しだ。
「ローレル、それじゃあね! わたしがいなくなっても元気でね!」
暴風域の外、強風に煽られているローレルに声をかける。おそらく聞こえていないだろう。ローレルが目を見開いた。
「……っ!」
ローレルがなにか言ってる。でも風が強すぎてなんて言っているか聞こえない。ただただ最後、その姿を目に焼き付けておきたくて――。
でも、それ以上言葉を伝えることは叶わなくて、早々に限界がきて力尽きて倒れ込んでしまう。蹲るわたしをエマは抱えると、促してきたステイと一緒にその場を飛び去ってしまった。
次に目が覚めたときは、どこか見知らぬ部屋のベッドに寝かされていた。木目調の壁と床、漂う潮の香り。わずかに揺れている。窓はついていないからわからなかったけど、おそらく船の中。
しばらく経っても誰も来なかったから、部屋から出ようとして起き上がる。まだくらくらしている。足元がおぼつかない。無理してたくさんの魔力を一度に使用したからだ。
床に座り込んで頭を抑えていると、扉が開いた。
「っ、リナリア!」
エマだった。
エマはわたしが床に座り込んで項垂れているのに気づくと、慌てて駆け寄ってきた。
「なにしてんの! まだ歩けないくせにこんな……!」
「ローレルは……?」
支えられた腕に縋るように手を伸ばす。どうしてもそれだけは確かめておきたかった。
「ローレルはどうなったの? 無事なの?」
見上げたエマはなんとも言い難い顔をしていた。苦虫を噛み潰したような、私を批難するような。
「……ああ、無事だよ。あの後エクセリオンを追い詰めて、無事にルィンランディア側が勝利を収めた」
その言葉を聞いて心底ホッとした。張り詰めていた糸が一斉に切れたかのように、へろへろとエマにもたれかかる。
「リナリア!」
「よかった……」
エマに縋って、顔を隠す。
なんでだろう。
ローレルが勝利を収めて嬉しいはずなのに、ローレルが無事ならそれでよかったはずなのに、なんでか胸の奥から込み上げてくるものは止まらなくて、次々と目から零れ落ちていく。
もう会えないのかな。だったらもう少し素直になって、もっと言いたいこといっぱい言っとけばよかったな。
ああ、そんな後悔、両親のときも経験したはずなのに。
「とりあえず、もう少し休みなよ……」
弱々しくエマは呟いて、わたしを立たせてくれる。
彼女たちにもうなにも言うことはない。この体はハイレイン傭兵団のものだ。
それでもエマは、そっと優しくわたしをベッドまで連れていってくれた。




