懐かしむ少年
「豆スープが食べたい」
ある日、珍しく朝っぱらからわたしの部屋に押しかけてきたローレルは、開口一番にそんなことを言ってきた。
「……豆スープ?」
一瞬なんのことかわからなくて、混乱する。
「豆スープって、あの豆スープ?」
「あの豆スープだ」
重々しい顔で頷く、ローレル。
「でも、ローレルって豆スープ、嫌いだったよね……?」
戸惑いながら確認すると、ローレルは途端に苦々しい顔になった。
「ああ、そうだ。嫌いだった。毎日毎日、豆スープばかり、豆なんかもう二度と見たくないと思えるほどに食べさせられたのに……なのに、めっきり食べなくなってからなぜか、無性に食べたいんだ……!」
ローレルは悔しそうにそう言うと、必死な形相でわたしの肩を掴んだ。
「だから、作ってくれ」
「えー? わたしが?」
いやー、こんな豪華で盛りだくさんな料理を毎日食べさせてくれる料理人がいるのに、そんな人を差し置いてたかが豆スープなんか、作れませんわ。そう思って断ろうとしたんだが。
「話はつけてある。今日はキッチンまでなら部屋の外に出てもいい」
部屋の外に出られる。その一言で、わたしはあっけなく陥落してしまった。
騎士に止められて以来、一度も近づくことのなかった扉の外に出る。控えていたエルフの騎士二名が、ローレルが出てきた途端に敬礼の姿勢をとった。
「行こう」
その様子をしげしげと眺めていると、気の短いローレルにせっつかれた。
「朝食がまだなんだ。早く豆スープを食べさせてくれ」
「えぇ? 朝食は朝食でちゃんと食べとけばよかったのに。朝からあんなもの、本当に食べるつもり?」
「煩い。食べたいんだから仕方がないだろう」
むくれるように口を曲げたローレルに、苦笑を返す。護衛の騎士たちが唖然としたように見ていた気がしたが、そちらを気にする前にローレルに視界を遮られた。
ローレルに連れられて、長い廊下を右へ左へ、階段を降りたり真っ直ぐに進んだりしていると、やっと厨房へと辿り着いた。そこで一人のエルフが待っていた。
エルフにしては筋骨隆々の、まるで背の高い熊のような雰囲気のオジサマだった。よく見ると例に違わず顔面は整っているが、その粗野な雰囲気のせいで、一見するとわからない。だがそれがなんともいえないいい味を出しているオジサマだ。
ペコリと無言で頭を下げられて、慌ててお辞儀をし返す。
「ここの料理長を務めているカンターだ。見慣れない器具があれば、使い方など彼に聞くといい」
たしかに、あの狭い家の台所とは比べものにならないほど、厨房の中はたくさんの器具や食材で溢れかえっている。
ローレルはそう告げると、入り口に凭れかかってわたしたちを眺めだした。
「なんか、急かされているみたいで落ち着かないんですけど……」
ローレルは肩を竦めただけで、動いてはくれなかった。彼をどうこうするのは諦めて、カンターと呼ばれた料理人に向き合う。
「あ、それじゃあ、よろしくお願いします。わたし、リナリアと申します。じゃあ早速、まずは鍋とブイヨンと、豆を。あとトマトもいただけます?」
カンターさんは黙って頷くと、伝えたものを用意してくれた。
あの森の家で作っていたスープの豆は、じつは何の種類なのか知らない。
森にいたころは、その辺に自生していたものを獲ったり、街での買い出しのときに乾燥豆を買ったりしていた。森で採れるものは、ひよこ豆の乾燥する前のような、枝豆の豆だけのような、そんな感じの豆だったと思う。当然美味しくはない。
なんだかんだ言って事前にローレルが伝えていたのか、カンターさんは似たような豆を用意してくれていた。
まずはトマトを適当な大きさに切って炒め、トマトが焼き潰れたタイミングでブイヨンと豆を入れる。
これもあの森で暮らしていたときは、畑から採れた野菜の残りくずを煮詰めて作ったブイヨンもどきを使っていた。今回はこんな急に言われてもすぐには用意できないので、そこはカンターさんの好意に甘えて立派なブイヨンを拝借することにした。
あとは煮えるまで煮込むだけだ。ただそれだけ。煮上がったら塩を入れるだけの、シンプルな豆スープ。当然、スパイスは簡単に手に入るような環境ではなかったので、今世では使ったこともない。
こんなチンケで幼稚な料理をプロの料理人の前で披露しなければならない羞恥に、段々顔が赤くなってきた。
「ねぇ、ローレル」
入り口でずっと見守っていたローレルに声をかけると、何事かと片眉を上げられた。
「やっぱりカンターさんに作り直してもらおうよ。これは全部、わたしが食べるからさ……」
「出来上がったのならさっさと出してくれないか。腹が減りすぎて倒れそうなんだ」
助けを求めるようにカンターさんを見上げるけど、彼は二人分の食器を出すと、わたしにおたまを渡してきた。
仕方がないので、そのまま装う。カンターさんがタイミングよく出してくれたトレイに乗せると、ローレルがついてこいと歩きだした。
厨房の隣。小さな食堂室があり、そこに下ろせと身振りで示される。
二人向かいあって座り、いざ、豆スープにスプーンをつける。一口食べてみて。
「……うん、豪華な豆スープだ」
提供されたブイヨンのおかげで味に深みが出ているが、所詮豆スープは豆スープ。作り手がわたしである以上、そう大きく味が変わるわけでもない。
ローレルが食べながら、わずかに顔を顰める。
「ねぇ、まだカンターさんもいるし、ちゃんとした朝食を作ってもらったら?」
「……」
ローレルからは、なんの返事も返ってこなかった。
まるであのとき、森の家で過ごしたときのように、彼はただ黙ってスープを口に入れ、わたしはその様子を眺めていて。それがあまりにも自然で普通だったから。
――あの家に戻ったかのように、錯覚してしまいそうになった。
ローレルはなにも言わずに最後まで食べ終わると、いつもしていたエルフ族特有の食後の祈りを捧げる。そして顔を上げ、その様子に見とれていたわたしを見て。
思いっきり顔を顰めた。
「どう、だった?」
「……豆スープだった」
その感想に、思わず吹き出してしまう。わたしもまさしく、それしか思い浮かばなかったからだ。
「そう、豆スープだったね! ちゃんと忠実に味が再現されていたでしょう!」
「ああ……」
ふと、ローレルが表情を緩める。
「リナリアの作った、豆スープだ」
一瞬浮かべたその柔らかい表情に、言葉もなく見とれる。
「これが、食べたかった」
柄にもなく顔に熱が集まっていくのがわかった。
そりゃそうだよとか、なに言ってるのとか、いつものわたしだったらポンポン出てくるような軽口が、こんなときに限って出てこない。
そんなわたしを、ローレルの明るいリーフグリーンの瞳がまじまじと見つめている。なにかを告げようとその薄い唇が開かれて、でもローレルも、言葉が詰まったかのように躊躇う。
「……また食べさせてくれ」
結局ローレルはふいと視線を逸らすと、それだけを告げてきた。
「こんなので、よければ」
私の口からも出てきたのは、当たり障りのない、そんな言葉だけだった。




