憤る少年
ある日のこと。
「そういえばリナリア様は傷が治ったのならここを出ていくって言ってましたよね?」
フェアロはマドレーヌを口に放り込みながら、なんの気無しに尋ねてきた。
「うーん、そうだね……」
でもどうなんだろう。ローレルの雰囲気的に、なかなか帰してくれそうにないかもしれない。
「そうなんだけど、ローレルがなかなか聞き入れてくれなくてね……」
フェアロは渋い顔をした。
「それはそうでしょう。せっかくいらしたんだから、このまま住めばいいのに」
「そうだね。ローレルもここに住めばって言ってくれてるんだけど、それはさすがに、ね……」
そう素直にうんと頷けない理由がある。
「……あの、もし」
フェアロは躊躇いがちに切り出した。
「もしもの話、ですが……」
急に改まったフェアロに戸惑って、淡い花が浮かぶ青い瞳を見つめる。
フェアロは真剣な顔をした。
「そう頑なにここを出られると言うのなら、それなら僕も一緒に行きますって言ったら、どうします?」
「……フェアロ」
「ルィンランディア様の心配もわかるんです。リナリア様は今までなんとか一人で生きてこれたかもしれない。けど、これからもそうとは限らない。あの森の家には帰らないって言うし、それでまた一から新しい土地を探すっていったって、一人でできることには限りがある。なによりそんな状態のリナリア様を放っておくことなんてできない。……だったら、」
いつものほんわりと無邪気に笑っている姿とは違った、真剣な顔。そんな顔で見つめられていることに、言われている内容に、とんでもなく動揺している自覚があった。
「僕は独り身だし、こう見えて植物に関する知識は人一倍持っています。クッキーだけじゃない、ほかの料理だってできるし身の回りのことは一通りできますよ。リナリア様一人を支えられるほどの甲斐性はあるつもりです」
「……でも、そうしたらもうここには帰ってこられないかもしれないよ。そんな、どうして君がそこまで」
なぜこの人はつい先日知り合ったばかりの異種族に、そこまで親切にできるのだろう。
フェアロは少し顔を赤くすると、まいったように頬をかいた。
「なんだか僕、リナリア様のことが放っておけないんです」
それは薄々気づいていた。けれど今回のは、さすがに世話焼きというにはいささか度の越した親切加減だ。
「自分でもよくわからないんです。でもこのままリナリア様を一人で帰していいのかって……」
自分でもよくわからない。その言葉の通りなのか、少し困ったようにフェアロは笑う。
「ルィンランディア様は許可を出してくれないかもしれません。でもそれでも、もしもリナリア様が僕も一緒に行くことを望んでくれたら嬉しいなって。まぁ、ちょっと考えてみてください」
フェアロはそういうと、もうこの話は終わりとでもいうように話題を変えて、いつもの庭仕事に関しての他愛もない話をし始めた。
――フェアロと二人で、新しい安住の地を探す。
たしかにこのフェアロの提案が、一番穏やかな解決策に思えた。
ローレルはここで生きていくべき人間だ。彼にはここでの生きる意義もある。役割もある。なによりたくさんの臣下に慕われて、今までよりもずっと心穏やかに安心して暮らすことができるだろう。
――ふと、あの森でのローレルと過ごした何気ない思い出が頭を過っていった。
ローレルとのあの時間は――本当に、もう二度と……戻ってはこないんだろうな。
部屋に戻ってきたわたしを、待ち兼ねたようなローレルが出迎えてくれた。
「またか。いつまでほっつき歩いている」
「……ねぇ、忙しいんでしょう?」
イライラしながらも待っていたローレルの様子に、思わずそう声をかけていた。
「そう律儀に待っていてくれなくてもいいのに」
「煩い。私が好きでしていることをとやかく言われる筋合いはない」
薄暗い部屋の奥から爛々と光る目がわたしを真っ直ぐに見つめている。
「なにをしていた?」
「……庭を散歩していたよ」
ほかにすることもないからねと、皮肉を込めて続けた言葉に返事は返ってこなかった。
「……あのさ、ローレル」
無意識に、ローレルから視線を外していた。
「このあいだ君に言われたこと、わたしなりに考えてみたんだ」
静かにわたしの言葉を待っている彼に、一呼吸おいて切り出してみる。
「ローレルが気にしてくれてるのは嬉しいよ。でもそれでもやっぱり、わたしは人のいるところにはいられない。わたしには人間の薄汚い欲望を引き寄せる忌々しい呪いがかかっているからね」
半永久的に魔導具のエネルギー源になる、魔塊という呪いだ。
その途端、ローレルが息を吐く。
「……リナリア。だったらなおさらおまえはここにいるべきだ」
「でも」
「ここにいればいつでも守ってやれる。あんな危険を冒して人里に買い物に行く必要もないし、物資不足に頭を悩ます必要もない。なにより、もう一人にさせなくて済む。ずっと一緒にいられる」
その言葉に息を呑む。
それこそ、わたしが内心一番望んでいて、そしてもう叶わないのではないかと恐れていることだった。
「私たちは同じなのだろう? 同じ人間に迫害される者同士。ここはその私たちの最後の砦なんだ。ここには反吐の出るような人間共は決して入ってこられない……でも一度外へと出てしまえば、そうはいかない。私の手元を離れてしまえば……万が一おまえになにかあったとしても、私には助ける術がない」
そのまま、長い沈黙が訪れた。
お互いに、なにも言わずに見つめ合っていた。まるで時が止まったかのように、微動だにせずに、だ。息を潜めるような異様に静かな空間で、ローレルの突き刺さるような視線だけをひしひしを感じる。
「おまえは私に最期を看取ってほしいのだろう」
「そうだね、でも……」
「それにおまえは私の最期を看取るとも約束した」
ローレルが近寄ってきて、少しだけ乱暴に手を取られた。
「約束を破る気か。そばにいなければその約束は果たせない」
「そんなつもりは」
「私にその髪を遺してくれないのか」
掴まれた手は少し痛い。まるで必死に縋るように、引き止めるようにローレルは手を握っている。
「おまえは私を買ったくせに、最期までそばにいてほしいと懇願したくせに、その約束を破るのか」
いつもと違ってあまりにも静かな声は、逆にその感情を際立たせている。
「っ……そうじゃないけど」
でも、あのときとはもう状況が違う。
「あのときはさ、わたしも君も帰る場所なんてなかった。わたしたちはあの森の家にいるしかなくて、あそこだけが唯一の居場所だった」
こんなローレルは見たことがなかった。滾るような憎悪を目にしたローレルは知っている。けどこんなにも静かに、まるで悲しむかのように憤るローレルは、知らない。
「でもさ、ローレルはもうそうじゃないでしょう? 君は本来居るべき場所に帰れたし、君を必要とする仲間と再会できた」
「ここは居場所なんてものじゃない」
見上げたローレルの目がみるみるうちに凍りついていく。
「私の居場所はここじゃない。私は……」
「なんでそんなこと言うの?」
思わず声を荒らげたわたしを、ローレルは凍りついた目で眺めている。
「君のためにみんな力を尽くして探していてくれてたんでしょう? 帰ってきてほしいって、君はみんなに望まれてたんでしょう? それをなんでそんなに簡単に切り捨てるみたいに、ここじゃないなんて言うの? ……君はわたしとは違う。もうどこにも居場所なんて残されていないわたしとは違う!」
言ってからハッと口を噤む。これじゃあただの八つ当たりだ。
「……おまえはそう思っていたのか」
ローレルの冷たく沈んだ瞳に浮かんできた感情。それに気づいて、息を呑む。
「おまえの中で私の存在は少しも意味を成していなかったか。私はおまえの帰る場所にもなれていなかったということか」
息を呑んだままなにも言えなくて、ひたすらに首を振る。
「……一緒についてきてほしいと、もうそんなふうにさえ思ってはくれないのだな」
静かにそう問いかけられて、動揺に揺れる。
「あの熱に苦しんだ夜……あのときのように自分のエゴを真っ直ぐに突きつけて、ただ私にそばにいてほしいと……そう言ってはくれないのか」
唇をわなわなと震わせたわたしに、ローレルは鋭く目を眇めた。
「だったらもういい。私もあのときのおまえのように、自分のエゴをおまえに突きつけるだけだ」
ローレルの声は、容赦がなかった。
「おまえが私にしたように、私もおまえを強制的に引き留める。わかってもらえるまでこの部屋から出られると思うな」
あまりの厳しい言われようだった。
「な、なんで……?」
思わず彼の顔をキッと睨む。
「わたしをこの部屋に閉じ込めるつもり……?」
「……庭ぐらいなら、私が同行する」
なんでそんな、傷ついたような顔をしているのだろう。縋るような、捨てられまいと必死に追い縋るような目をして……その目が揺れて、ローレルの手が伸びてくる。冷たい指がわたしの耳を擽るように掠める。
「毎日でも、朝晩でも付き合ってやる。ここにいると、ずっとそばにいてくれると約束してくれるまで離れない。……私にはおまえしかいない。そのほかのすべては、もはや私にとってはもうどうでもいいことだ」
「ちょっと、無茶を言うのはやめてよ」
ローレルの手を払うように身をよじると、突然強い力で抱えられた。見た目からは想像もつかない、強い力だ。とっさに身を捩ろうとしたけど、抜け出せる気配もない。
「わたしは別に君に四六時中構ってほしいわけじゃない。それにわたし一人なんかにかまけている場合じゃないんじゃないの? そんなどうでもいいことに付き合っている暇があれば、少しでも休憩をとってその目の隈をどうにかしなよ!」
「まだそんなことを言うのか!」
有無を言わさぬ調子で遮られて、髪を掻き上げられる。
「なにしてっ……て、ちょっと、ちゃんと聞いて!」
ローレルはわたしの言うことなど聞いていないようだった。ただ縋るようにわたしを抱き込み、あらわにした耳に口づけようとしている。
「ねぇ、なにしてるのってば!」
「ちょっと黙ってくれ」
掠れた声が耳元に吹き込まれてきて、思わず身を捩った。……自分は絶対に男の人の力に勝てないのだということを、わたしはこのとき身をもって思い知った。どんなに抵抗してもローレルの腕は振り解けず、押さえつけられた体はビクともしない。頭を抱えられるように固定され、ローレルの薄い唇がわたしの耳を撫でている。
「ちょっ……くすぐったいから止めてっ……!」
いくら制止しても、懇願しても、ローレルは彼の気が済むまで、その行為を止めてはくれなかった。




