save③ 私、待ってたよ? -羽瀬田リュウ-
マザーシステムの完全停止に伴い、人体実験エリアの扉は解錠されたまま放置されていた。
それを確認し、リュウは一瞬にして気配を察知した。
(これは…血の匂いだ)
自分の肩にいるソフィーの姿を確認すると、彼女は不思議そうに開いたままの扉を見つめている。小さく「大丈夫だよ」と呟くと、いつもの笑顔をリュウに向けた。その笑顔に微笑んだリュウは、少しだけ瞳を閉じ、深呼吸をして心を落ち着ける。
「アヤカ、俺の傍を離れないで」
アヤカが頷くのを確認すると扉に近付いた。
――突如
足を踏み入れると共に、頭上からナイフが振り下ろされた。アヤカを抱え、後退したリュウの前に現れたのは、筋肉質の大男。
彼のブラウンの瞳が2人の姿を捉えた瞬間、大男は動きを止めた。
「シオンじゃなかったか」
戦闘服のようなカーキのズボンにはナイフとハンドガンが装備されている。男はハンドナイフを握りながらも、安堵した様子で戦闘態勢を解いた。
(3年前…会ったことがある。こいつは、シオンの仲間だ)
「おっと、戦う気はねぇよ。俺はあいつらの傭兵はついさっき降りたんだ」
そう言ってナイフをしまうと、肩をすくめるように手を上げた。
「俺は影山タケシ。ここに金で雇われていた傭兵だったが…芹沢ユウジの方針と合わなくなってな」
芹沢ユウジ。その名前にリュウは一瞬驚いた。
「芹沢さんも、ここにいるのか?」
「あいつは陰で俺たちを操る、恐ろしい男だ。契約破棄を伝えたら、シオンに俺の抹殺を命じやがった…正直、俺は奴には敵わねぇ」
タケシの肩口には大きな傷が刻まれていた。
「シオンはどこにいる?」
「制御室の方じゃねえか?俺はそっちから逃げてきたからな」
制御室は、ダイスケが向かった方だ。
3年前、リュウはシオンの圧倒的な強さに一度敗れた。
夜の精霊を従え、相手に合わせ戦術を変える独特の戦闘スタイル。そして、あの黒い刀。3年前リュウの時の矢の力で折れたはずだったが、先日会った彼の手には再び黒い刀が握られていた。
「お前が本当に芹沢さんとシオンの仲間を抜けたなら、ここの研究内容のデータの場所を教えろ」
ダイスケの事が気になったが、自分の役目はここの研究内容の調査だ。
リュウの要求に、タケシはお安い御用と言わんばかりに、手を上げたまま奥へと歩き始めた。
「リュウ…」
「大丈夫だ、ダイスケはきっとうまく切り抜ける」
不安そうなアヤカに、そう声をかけ、彼女の手を取るとタケシの後をついていく。
広い室内は無機質な壁で覆われ、無数の試験管が並んでいた。ひとつひとつの試験管にリュウ達と同じ年くらいの少年や少女が1人入り、眠るように液体の中で呼吸を繰り返していた。
クローンたちが入った試験管に囲まれたこの簡素な空間には、シンプルなテーブルと制御用のコンピュータが設置されている。
ホワイトボードには複雑な数式が記されており、テーブルの上には乱雑に散らばった資料。そのほとんどはイサムが書いた殴り書きのようなメモであった。
タケシはその中からUSBメモリを手に取ると、リュウに手渡した。
「お前らが欲しい、ここの研究内容はそいつに全部入ってるぜ」
手渡されたUSBメモリには「アルケミスタ送信用」というシールが貼ってあった。イサム博士がアルケミスタに送る為のデータファイルという事だろう。
(これが本当なら、確かに信頼できるデータだけど…影山さんは、こちらの要望に素直に応じすぎだ)
「内容の確認がとれない。悪いけど、資料を調べさせてもらうよ」
このUSBメモリの真偽を確かめるには、ナオキの小型パソコンを使用するしかない。散乱する資料を調べると、一枚の写真が目に留まった。
その写真には、男性、女性、そして子供が映っている。3人に共通しているのは、淡い色素にピンクがかかった、特徴的な髪色と、青く輝く瞳を持っている事。そして、写真の子供は、デスゲーム中のマザーと同じ姿をしていた。
(この子供はアルト…という事は、この女性は和久井シオリ…ナオキの母親か)
そして、写真の中の男性。一瞬シオリの夫かと思ったが、それにしては若すぎる。
(高校生くらいか…どこかで見たことあるような気がするけど)
考えたが、思い出せない。アルトが一緒に映っているという事は、少なくとも14年以上前だ。現在は30歳前後ということになるだろう。
そして、もう一つ気になる事があった。3人の共通点である、特徴的な髪色だ。
(どうして、ユメと同じ髪色なんだ…?)
思わず妹のユメのことを思い出し、彼女の愛らしい髪色が脳裏に浮かんだ。
写真をポケットにしまい込み、彼は次にホワイトボードに目を移した。そこには「新人類プロジェクト」と書かれ、資料が一枚貼り付けられている。
【 Homo Sylphidus Adaptus ホモ・シルフィドゥス・アダプタス 新人類
本研究では、従来の枠組みから逸脱した個体群、すなわち「非適合者」において、未知の可能性を探求している。この特異な個体群は、細胞のオーバードーズ現象を引き起こすことなく、人間が通常到達不能とされてきた「精霊界」と呼ばれる次元への進入が可能であると予想されている。これらの個体を「新人類」と命名し、現実世界と精霊界の中継者、あるいは仲介者のような役割を担う存在と位置付けている。
しかしながら、この新人類の生成には、膨大な数の試行錯誤と繰り返しのプロセスが必要である。 】
(黒い石を持ち、妖精の力に非適合で且つ、人間の体を維持した存在…それが新人類)
頭の中でそう解釈しながら、目の前の数式に再び目を移した。
「リュウ、この数式わかるの?」
アヤカはわからないと言った様子で首をかしげている。
「うん、簡単に言うと、無数のパターンのうち、次の実験で試す適切なものを割り出す計算式みたいだ」
ざっと見たところ10000以上のパターンがあるようだ。その中でたった一つのパターン…つまり、新人類と言われる存在を見つける為の計算式がそこに書かれているようだった。
(天才はこんなふうに新しいものを発見していくのか)
これは黒い石を使った人体実験の為のもの。しかしリュウは、イサムが描きだした複雑な計算式に一瞬心奪われた。この計算式に至った経緯、そこからイサム博士はどのように仮説を立てるのだろうか。そんな純粋な好奇心がよぎる。
そして、イサムはダイスケの父親にあたる人物だ。
(こんな人が父親だったら…)
しかし、その思考はすぐに頭を振り、消し去った。
(カレンが命がけで戦っているんだ)
一瞬芽生えかけた好奇心を振り払い、ホワイトボードに張られたメモを手に取る。そしてテーブルの上の資料から情報を得られるものがないか探し始めた。
――その時
施設内の電気が一斉に明るく輝き始めた
(ダイスケとイサム博士が制御室を操作したんだ)
施設に残された僅かな電源は、そう長く持つはずがない。
時計を見ると、23時10分。
時間を確認したところで施設内にアナウンスが流れた。
「これより本物のイサム博士の判別を再開します。この部屋のイサムをイサムα、厳重セキュリティエリア前のイサムをイサムβと識別します」
その言葉に顔を上げたリュウ。アヤカは小さく声を漏らし、体を微かに震わせた。
「どういう事だ…?デスゲームが再開??」
心に再び激しい不安が押し寄せ、通信機のボタンを押し、急いで声をかけた。
「ナオキ、応答してくれ」
「はい。デスゲームの再開…イサム博士もこれは想定内だったでしょう」
マザーシステムの再起動により、セキュリティが復帰し、過去のデータが復元されたのだ。それにより、マザーの死によって終わったと思われたデスゲームが、侵入者を識別するために再び始まるということだ。
カレンを救う事ばかり考えていて、そこまで考えが至らなかったことを悔やんだが、ナオキはリュウに優しく語り掛けた。
「リュウ君、君が気に病むことはありません。あの場で再起動を決めたのは、イサム博士と僕です」
「ナオキ…」
アナウンスは続いた。
「デスゲーム終了までの臨時の管理者を”芹沢ユウジ”とします。セキュリティは彼の指示に従うものとします」
臨時の管理者…かつてのデスゲームでは、マザーシステムは地下研究所の管理者を他人に切り替えることはなかった。
「おそらく、マザーシステムが再起動された為でしょう。現在のマザーはデスゲーム前のマザーと異なり、イサム博士と芹沢ユウジに関する情報が不十分です…AIとしては、これが適切な判断なのでしょう」
芹沢ユウジ。
彼はリュウが以前所属していた闇組織”影縫い”のトップであり、この研究所を統括する組織”アルケミスタ”のトップであるシオン・ヴァルガスと同盟関係にある人間だ。
そして、カレンの父親でもある。
芹沢の元で受けた戦闘訓練や、拷問に近い「教育」。3年前、彼に受けた仕打ちを思い出すと、背筋が凍るような感覚に襲われた。それを打ち消すように軽く息を吐くと、タケシが口を挟んできた。
「小僧、そいつはお前らの指揮をとってる奴か?」
リュウが頷くと、タケシは通信機に向かって話しだした。
「お前、橋本ナオキだな」
「…リュウ君、彼は誰ですか?」
疑念が混じったナオキの声。それに応えるようにリュウも話す。
「この研究エリアでさっき会った、アルケミスタに雇われた傭兵だ。契約を破棄して、シオンに追われてるらしいけど…」
タケシはこちらの要望通りに研究内容を渡したが、彼の言葉が本当かどうか確証はない。リュウの意図を読み取ったかのように、ナオキがタケシに話しかけた。
「アルケミスタの傭兵…影山タケシさんですね。お久しぶりです。用件を聞きましょう」
「率直に言う。脱出までの間、俺をお前らに同行させろ」
タケシの要望に、ナオキは少し考えた様子で沈黙した。
「賛成はできませんね、あなたの行動はどう考えても不自然です」
ナオキの返答にリュウはほっとしつつ、タケシの反応を見た。彼は動じた様子もなく、軽く手を振った。
「精霊界に行く方法を教えると言ったら?」
タケシの言葉にリュウ、アヤカ、そしてナオキも沈黙した。
精霊界への行き方――これは3年前、シオンが語った二つの世界の結びつきの話の中の、まだ解明されていない部分だった。
「なるほど、では今教えて頂けますか?」
「そいつはできねぇな、脱出までの同行…それが条件だ」
「情報は魅力的です。しかし、一介の傭兵に過ぎないあなたに、重要な情報をアルケミスタが渡すでしょうか?」
ナオキがそこまで言ったところで、新たなアナウンスが流れた。
「芹沢ユウジより、管理者権限の譲渡が確認されました。新しい管理者を“USE-01”とします」
「管理権限の譲渡…どういう事だ」
驚いたリュウに対し、ナオキの声は冷静だった。
「タケシさん、USE-01については何か知っていますか?」
「詳しい事は知らねぇが、ユーズプロジェクトで、イサム博士が生み出したAIって聞いてるぜ」
イサム博士が生み出したAI・USE-01――しかし疑問があった。「芹沢ユウジ」は、何故管理権限をAIに譲渡したのだろうか?テーブルの上の資料を探したが、USE-01についての資料はなかった。
その時、ナオキの声が急に変わった。
「これは…」
焦りを含んだ声。それに違和感を感じた直後だった。
「リュウ君、緊急事態です。恐らくUSE-01は……ザザッ……」
「ナオキ?」
急に音声が遠くなり、ノイズのような音が響いていく。
「ザザッ……て…ます。リュウ君、いいですか?」
「ごめん、今音が遠くなって良く聞こえなかった。もう一度言ってもらえるか?」
「はい。USE-01がデスゲームが開始したら扉の開錠はできなくなるでしょう…少し早いですが、僕は開錠作業に取り掛かります」
ナオキの声色はいつも通りだった。しかし、先程の焦りを含んだ声は一体何だったのだろうか?
「緊急事態って言わなかったか?」
「はい。どんなゲームが投げかけられるかわかりません。開始前にカレンさんを救う必要があります」
「……」
少し引っかかる部分はあったが、落ち着き払ったその声はいつも通りのナオキだ。
「では、また連絡します」
通信が切れ、静けさが室内を支配した。
再開されたデスゲームと、一時的な管理者の譲渡。それは先程のようにマザーの完全停止によるゲーム終了が不可能である事を意味していた。そして何よりも、芹沢ユウジがAIに管理権限を譲渡したという事実。
(芹沢さんは、恐ろしいほど頭のきれる人だ…何か意図があるに違いない)
時計を見ると、23時15分を指している。
予備電源の稼働時間が気になる。そう思い、ダイスケに通信を送った。
「ダイスケ、無事か?」
「ああ、そっちはどうだ?」
ダイスケの声がいつも通りである事に安堵し、彼に尋ねた。
「俺もアヤカも無事だ。そっちにシオンが行ってないか?」
「ああ、いたよ。でもすぐに部屋を出ていったな」
リュウは一瞬言葉を失った。シオンが部屋を出て行ったということは、彼が制御室と人体実験エリアの間の廊下にいるということだ。
「安心しろよ、あいつはナオキに手は出せねぇ」
言い切るダイスケ。しかし何故、そう言い切れるのだろうか。
「なにか根拠があるのか?」
「あいつと取引したんだよ。ナオキに手を出すなってな」
一体どんな取引を?そう、聞こうとした時、ダイスケの方から話しかけてきた。
「それより、アナウンスを聞いただろ?新しい管理者のUSE-01なんだけどさ、…は?」
突然、ダイスケの声が上ずった。
「わかった、わかったって。けど、その愛してるってのはやめろよな」
(一体誰と話しているんだ…?)
イサムと会話しているとは考え難い。
「ダイスケ、誰かそこにいるのか?」
「リュウ、非常用の電源は24時ぴったりまでもつらしい。また連絡する」
通信が途切れ、再び静寂が室内を包み込んだ。
不可解な事が多かったが、とりあえず情報を整理しようと考えた。
ダイスケはシオンに遭遇したが、無事だった。どうやら、ダイスケが持ちかけた取引のおかげで、シオンはナオキに手を出せない状況にあるらしい。
ナオキは先程厳重セキュリティエリアの扉の開錠をすると言っていた。中にいるカレンが実験体148を倒していればいいが、そうでなかった場合が心配だ。
デスゲーム開始のアナウンスは流れていない。マザーシステムの臨時の管理者となったUSE-01についてダイスケは何か知っているようだった。
そして、制御室を出たシオンはタケシを追っている。恐らく、ここに向かってくるだろう。
(シオンとの戦闘になったら…)
考え込むリュウに、タケシが話しかけてきた。
「考え込んでるところ悪ぃけどよ、シオンがここに来る前にすることがあるんじゃねぇか?」
彼の方を見ると、タケシは親指で奥の扉を差しながら口元に笑みを浮かべた。
「ここの研究内容はこれだけじゃねえ。重要なのはこの奥にあるやつだが…」
言葉を濁しながら、タケシは意味深げにリュウを見つめた。
「何だ?」
「いや、時間がねえんだろ?さっさと済ますぞ」
そう言って、奥の扉の前のパスコードを入力すると、タケシは中に入って行く。
「リュウ、あの人の心の色…」
タケシの背中を見つめながら、アヤカは少しだけ考え込んでいた。
「影山さんが、どうしたんだ?」
「濃くて深い緑…翡翠の石みたいに心が澄んでいるのに、表面はくすんでる…その中にキラキラしたものが見えるの。まるで、綺麗なものを自分で覆い隠しているみたい」
妖精であるアヤカは、人間の心の色を見る事ができる。綺麗な心を持った人間の瞳の奥には、ビー玉のような輝く宝石が見えるそうだ。
「それって、どんな人間って事なんだ?」
「心が隠すものは、その人の大切なものや、信念や、本当の姿…本音とか」
そう言ってリュウの瞳を見つめた。突然見つめられて驚いたが、じっとしていると、アヤカが瞳を輝かせる。
「リュウは澄んだ透明で、キラキラしてて、その奥にはリュウの本当の姿が隠れてる。あの人も同じで、大切な何かを隠してるんじゃないかな」
(俺の、本当の姿…?)
リュウは3年前を思い返した。
”僕には君が必要なんだ”
死んだ妹のユメ。彼女を守れなかった事は深いトラウマとして、リュウの心に刻まれていた。
もう、ユメの時のように何かを失いたくない。傍にいてほしい。拒絶が怖い。一人にしないでほしい。それが3年前、アヤカだけに話した、リュウの本音。
思い返した瞬間気まずくなり、彼女から目を逸らした。
「えっと…表面がくすんでるって言ったけど、それはどんな意味があるんだ?」
視線を逸らされ、不思議そうにリュウを見ていたアヤカは、その質問に再び考え込んだ。
「大人の人の心は表面と本当の色が違う事が多いの。ナオキもそうなんだけど…」
アヤカがそう言ったところで、タケシがしびれを切らしたように扉の奥から出てきた。
「おい、何してんだ」
そう言うと苛立ったように再び奥の部屋に入って行った。
少し考えたが、厳重セキュリティエリアに自分の代わりに取り残されたカレンの事を考えると、あまり長く悩む時間はなかった。
テーブルの上に散らばった資料を確認した後、リュウはアヤカの手を取り、タケシが入って行った部屋へと進んだ。
奥の部屋は広い広間となっており、中央には巨大な試験管が一つ鎮座していた。
タケシはその前に立ち、奥のパネルを操作していた。室内は電子機器の光で明るく照らされていく。
「…!!」
その中にはリュウやアヤカと同い年くらいの少女が入っている。アルトと同じ、淡い色素にピンクがかった特徴的な髪色、簡素な白い服を纏い、液体の中で微かに呼吸しているのが見えた。
「リュウ、どうしたの?」
アヤカに声をかけられたが、リュウは言葉を発することができなかった。その少女は彼がよく知る人物だったからだ。体中が震え、何が起きているのかを理解するのに時間がかかった。
「ユメ…」
その言葉にアヤカも驚き少女の方へ視線を向け、リュウの様子を見たタケシは頭を掻いた。
「こいつはユーズプロジェクトの最高傑作らしいぜ…名前は、羽瀬田ユメだ」
あたりはしんと静まり返る。
試験管の中の少女が僅かに瞳を開き、リュウと目が合った。
その瞬間深い青の瞳が微かに揺れ、それを見た少女はその顔に微かな微笑を浮かべたのだった。




